LOGLOG

『映画』や『ガジェット』や『ものづくり』のことなど、気になった事をまとめていきます。

「自分だけは『傷つける側』にはならないと思ってた」残酷さと優しさが炸裂する映画 ズートピア感想

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ズートピア、観た直後から「いい映画だったな〜!!」と思ったのですが、時間が経つにつれて、ますます感情が高まってきたので、感想をまとめてみました!

一言感想

予告編を観た時から「これは『主人公が様々な偏見と戦う』というお話なんだろうな。今のディズニーのことだから、バッチリ仕上げてくるんだろうな」とは確信していたのですが、こちらの想像のその先に突入していました…やられた!
変に身構えなくてもとっても楽しくて感動的な映画なのですが、私にはちょっと(良い意味で)グサリと刺さりすぎてビックリ。本当に文句なしのオススメです!親子で観に行って欲しい〜!!

以降かなりネタバレしております。ご注意下さい。

見終わった直後の感想

実は、映画を観た直後は「ジュディの記者会見」のシーンがどうしても引っかかってしまい、そのもやもやをラストまで引きずっていました。「なぜ肉食獣だけが凶暴化したのか?」という記者たちからの質問に、能動的にも見える態度で「DNAが…」とか「肉食動物はその昔…」なんて返答するジュディに対して、「すぐ隣でニックが見ていることも分かってるのに、なんであんな無神経なこと自分から言っちゃうの?」と、ちょっとイライラしてしまったのです。
でも時間が経つに連れて「あのシーンこそ今回のお話の肝だったのかも」と思うようになりました。

誰でも『傷つける側』になり得る、という事実

f:id:t0rakeina:20160430215532j:plain 物語の前半は「逆境に置かれた女の子がいかにして目的を達成するか」という比較的オーソドックスな展開です。
それ自体ものすんごく良く出来ていて、数々の困難に真っ直ぐ立ち向かい乗り越えるジュディには思い入れずにはいられないし、ジュディのひたむきな姿に、ニックがだんだん心をひらいていく過程にはグッと来るものがあります。でも、思い返せば物語の前半にも、様々な「グレーな要素」は盛り込まれていたのかも…?
例えばジュディの両親は、とても優しく愛情深いけれどちょっと保守的で、娘には「とにかく平穏で安全な人生」を送って欲しいと思っているように見えます。序盤のシーンで出てくる「夢を持つことはもちろん素晴らしいことだよ!願えば叶うと思わなければ…」といった内容のセリフにはちょっとギョっとしました。シーン自体のポップさに対して「味方サイドの人がこんなに白黒はっきりしないことを言うのか」と。そのほかにも、幼い頃のジュディを理不尽に傷つけたのはニックと同じキツネの男の子だったり、「キツネよけスプレー」というアイテムが印象的に使用されていたり、ジュディが「何となくあやしい人がいるな…」と思ったことが2人の出会いのきっかけだったり。(実際悪巧み実行中なので、この勘は正しいのですが)  極めつけが、ジュディが言う「頑張れば象にだってなれるよ!だってここはズートピアだもん」というセリフ。こどもを励ますセリフとは言え、「いや、基本的にはいい事言ってると思うけど、それはちょっと言い過ぎでは…?」という引っかかるセリフになっていると思うのです。確かに、本気で象になろうとしたら、あの世界にはその為の方法が用意されているような気もします。(なんらかの整形手術的な方法とか)でもきっとその方法はそれなりのリスクを伴うから、さらっと「出来るよー!!!」って言うようなことでは…ないの…では…?
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そしてこのようなグレーな要素が少しずつ積み重ねられ、主人公2人の大立ち回りで一旦観客がそれらをすっかり忘れた後で、「お前ら『これで全部解決!』って思ったら大間違いだぞ!」と、見ている観客に溜まりに溜まったものをぶつけてくるのが、「ジュディの記者会見」のシーンなんだと思います。
誰でも、誰かを傷つける可能性がある。その「誰でも」には、当然「逆境で頑張る女の子」も含まれます。「自分だけは『傷つける側』にはならない」という「驕り」が一切無かったと言い切れるか?私は多分、自分のそういう部分に自身が無かったので、ジュディの姿にイライラしてしまったんだと思います。「その時判明している事実を言っただけ」「傷つけるつもりは無かった」というのは、気持ちは分かるけど、やっぱり言い訳なんですよね…。
物語の前半で「確かにうさぎは可愛いけど、見た目で判断されるのはちょっと…」「警察学校ではトップの成績だったのですが…」などの発言していたジュディは、間違いなく「自分も周りの動物と同じように認められたい。リスペクトされたい」と思っていたでしょう。その願いは、歪んだ形で達成されます。結局、他者から認められたいと思っても、自分が真に他者を認められなければ、それはおかしなバランスになってしまう…。本当に残酷な展開だと思います。

意地悪な部分も含めて『優しい』ニックというキャラクター

f:id:t0rakeina:20160430214624j:plain 一方ジュディのひたむきさに心を開いたニックは、物語の後半からその「優しさ」を爆発させます。
ジュディの必死の謝罪に呼応する「ニンジンペンでの意趣返し」のシーンでは、王子様のような一方的な救済ではなく、「ジュディ本人のセリフを引用する」など、ちょっと意地悪でフザけたな要素を盛り込むことで「謝罪した後のジュディが、変に負い目を感じないようにしている」ように見えました。あのシーンが「一方的な許しのシーン」だったら、その後の展開の印象が少し変わっていたかもしれません。お互いにリスペクトを持っているからこその「意地悪」だと、私は思いました。 f:id:t0rakeina:20160430215022j:plain

そして物語は、二人の完全な協力プレイ(詐欺師的な一芝居)で解決します。ここでも、どちらかのパフォーマンスだけでは、事件は解決しなかったでしょう。ジュディがたまたま持ってきたブルーベリーが役立つところなど、かなり計算されているように思います。「お互いを信じていなければ出来ないことをする」男女とか異種族とかそんなことは取っ払って「バディ・ムービーの王道」を正々堂々と観せてくれる、最高に夢のあるシーンだ…!!! f:id:t0rakeina:20160430214814j:plain

 今「こども」と呼ばれる年齢の人たちがこの映画を観て、ズートピアの動物達と同じように自分の中にも潜む「残酷さ」と「優しさ」の両方に気づき、少しでも早く向き合うことができたら、本当に、それより素敵なことは無いんじゃないかな(もちろん大人もしかり)「アメリカに住む人が観るとグッと来るネタが多い」というお話もありますが、日本に住む私たちが観ても、十分普遍的で、突き刺さる物語だったと、私は感じています。!もう一回みたいぞー!!

もう1組の「2人の男のぶつかり合い」- バットマン VS スーパーマン ジャスティスの誕生 感想-

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バットマン VS スーパーマン ジャスティスの誕生」が、いろいろ言いたくなる感じの映画だったので、感想を書きたいと思います。マッドマックス以来の映画感想だ…!

ちなみに今回の記事はネタバレを微妙に含みます!やや注意!

一言感想

バットマンとスーパーマン、主役2人のかっこいい姿、立ち回り(アクション)が観れたので大満足。ヒーロー映画感が高い…!ヴィランも含めて、キャスティングが抜群! ただ「ザック・スナイダークリストファー・ノーラン、どちらか単独でこの映画を作っていたら、もっと面白かったかもしれない」と邪推してしまった。なんだかお互いの良いところを相殺し合ってる気がする…

好きな点

  • 魅力と必然性のあるキャスティング
  • ヒーロー映画かくあるべし!なアクション

魅力と必然性のあるキャスティング

まず俳優陣、超良かったと思います! ヘンリー・カヴィルのスーパーマンの「本物感」はもうすっかり板についてるし、賛否両論あったようですが、私は好きです、ベン・アフレックバットマン。今、バットマンに関する映画を撮れば、どうしても「ダークナイト」との比較は免れないのだから、クリスチャン・ベイル版とこのぐらい雰囲気が違うのは、戦略としても良いんじゃないかな〜。実年齢よりちょっと老けてる演技のベン・アフレックが、老体(?)に鞭を打ってボロボロになりながら頑張る…いい!バットマンとアルフレッドの関係性も「手の焼ける息子と父親」って感じで全然違いましたね。新鮮で良かったです。

f:id:t0rakeina:20160415015225j:plain マイケル・ケインのアルフレッドも好きだけど、ジェレミー・アイアンズ版のアルフレッド、すごいカッコ良かった…

またジェシー・アイゼンバーグ演じるレックス・ルーサーも、クレイジーで、バットマンっぽい良いヴィランだったと思います。「バットマンを観てる感」が高まる〜!(原作ではどちらストーリーに登場するか知らないのですが…)仲間っぽい人も容赦なく切るところがいいですよね。ピーチティーとか。ただ、ちょっとオチは「ザ・その手の悪役」という感じで残念だったかな〜

f:id:t0rakeina:20160415015311p:plain 予告に出てきたこのシーンの「Boys!」の勢いの良さで、「あ、この映画観に行きたい」と思いましたね

ただ正直、もっとワンダーウーマンを観たかったですね!願わくば、戦闘コスチュームだけじゃなくて、ばっちりドレスアップした姿で軽く暴れて、「この女、ただもんじゃねえ…!」みたいなシーンとか!

ヒーロー映画かくあるべし!なアクション

「どこを止め絵にしてもカッコ良さそう」と思わせる気合が入ったアクションは、さすが「300」や「ウォッチメン」で「コミックをいかにカッコよく映画にするか」に心血を注いてきたザック・スナイダー!手腕をビンビンに感じる仕上がりでした。ラストのドゥームズデイとのバトルはもちろん、特にフレッシュだなと思ったのは、砂漠っぽいシーンでの「長回し風&ちょっと疲れてるアクション」カメラも結構動くんだけど、ちゃんと分かりやすい絵になってて、すごい楽しかった!バットマンがしんどそう〜

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冒頭の崩壊するメトロポリスを疾走するカーアクションも、ごちゃごちゃしてるのに緩急があって楽しかったです。IMAX3Dで視聴したのですが、ここがが一番3D感も高かった! マン・オブ・スティール終盤の展開のサイドストーリーとして展開するこのシーン、「スーパーマンは街を守ろうとしてたのに…」と、こちらをちゃんと悲しい気持ちにさせてくれるので、今回の映画のなかでもかなり良かったと思います。
(前作から「そもそも人里で暴れすぎでは?」という疑問はちょっとありますが…)

うーん…と思った点

  • メイン製作陣2人の味のケンカ
  • キャラクターの感情が追いづらい

メイン製作陣2人の味のケンカ

この映画がどんな制作体制だったかは分からないのですが、監督のザック・スナイダー、製作総指揮のクリストファー・ノーラン 2人の「味」が、なんだかケンカしてしまっているような印象でした。(ノーランは立場的に強く関与していないとは思うのですが、猛烈にノーランぽいシーンもたくさんあったので…) 私はどちらの作品も好きだし、どちらも「象徴的なお話」を得意とする人なのかな、と思っているのですが、今回この映画を観て「同じ『象徴的な話』でも、2人がやりたいことは全然違うのかも…」と思いました。 仮にアニメで例えるなら、ザックはガイナックス、ノーランはシャフトとかマッドハウスというイメージ。

ザックのイメージ

f:id:t0rakeina:20160415015937j:plain f:id:t0rakeina:20160415020155j:plain エンジェルウォーズを「これが本当に撮りたかった作品」 と豪語するザックは、信頼できる男だと思います。

ノーランのイメージ

f:id:t0rakeina:20160415020230j:plain f:id:t0rakeina:20110227014131j:plain なんか、かえって分かりづらい上に、誰かから怒られそうですね…

バットマン VS スーパーマン」も、「要所要所でシャフトの思わせぶりなシーンが展開し、その間にガイナックスの熱めのバトルものが挟まってる」と言いますか…どちらにも集中しきれなかった印象です。
仮に、この映画をどちらかが完全にハンドリングしていたら、今とは少し違う、すっきりした話になったんじゃないかな。例えば、クリストファー・ノーランが完全に指揮を取っていたら、プレステージダークナイトばりに、ものすごーくスッキリしない「もう!人間って汚い!」みたいな部分がガッツリ描かれて「うわ〜、最悪…」と言いながら楽しめたような気がするし、ザック・スナイダーだったら、それこそ300やウォッチメンのように「あれ?なんか辻褄合ってなくない?」なんて余計なことを考える隙が無いような、怒涛の展開になっていたんじゃ…などと邪推をしてしまいました。

キャラクターの感情が追いづらい

さらに、この「ザックな要素」と「ノーランな要素」、2つの要素がケンカしてる結果、お話が滑らかに続いてる感じがしないんですよね。要所要所でブツッと切れてる。故に、「あれ?スーパーマンはなんでこんなにバットマン嫌いなんだっけ?」とか「バットマンがここまでスーパーマンを倒そうと思ってる理由ってなんだっけ?」とか「あれ?この人達、いつ和解したんだっけ?」とか…キャラクターの感情が追っかけづらい = 感情移入もしづらいような気がしました。

f:id:t0rakeina:20160415214803j:plain 何回か見たら違うんだとうけど、2人の行動の動機がだんだん分からなくなっていく…

ネガティブなことをごちゃごちゃ言いましたが、やっぱり「ヒーローたちがかっこいい」というのは、ヒーロー映画としてものすごく大事な部分だし、その部分を余裕でクリアしているスーパーマン VS バットマン、秋にはスーサイドスクワッドも控えていることですし、世評はあんまり気にせず、映画館で観るのがオススメだと思います〜!

DIYでコンプレックス克服!写真写りをマシにしたい!〜作れ!大リーグボール養成ギプス編〜

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春の気配が色濃くなってきた今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか?

前回までのあらすじ

来る三十代を前にして己の成長を実感出来ず、「自分でどうにか出来そうなコンプレックスを克服しよう」と思い立った私。「写真写りが悪い」という長年のコンプレックスを解消すべく手を動かし始めたものの、怠惰な性格が災いして成果はなかなか出ず。新年を期に「1日1回自分の映った写真をInstagramにアップする」という目標を掲げたのだが…。

詳しくは過去の記事をご覧ください。

t0rakeina.hatenablog.com

t0rakeina.hatenablog.com

なぜ毎日写真をアップできなかったのか?

前回の投稿を期に、「1日1枚写真をInstagramアップする」という目標を掲げた私。しかしその結果は、見事としか言いようのない程の3日坊主ぶり。

f:id:t0rakeina:20160321160801p:plain 宣言して早々Facebookでボヤく私。

今回はまず、目標が達成されなかった理由について少し考えてみたいと思います。

毎日そんなにイベントは無い

先ほどのコメントでも述べていたように、そもそも写真に写ることがそんなに好きじゃない人間にとって、なんでもない日に写真を撮るのは割りと難題です。とは言うものの、実は「写真を撮る」というところまでの難易度はそこまでではありません。ただ、それを「Instagramにアップする」となると話は別です。

  1. 「この写真でいいかな〜」
  2. 「やっぱりなんか変…撮り直そう」
  3. 「う〜ん、何を基準に選んでいいかわからない」
  4. 「…もう今日はいいか…」

大体この思考ルートでアップロードを断念し、写真をカメラロールに貯めこむ日々。
ポイントはこの「何を基準に選んでいいかわからない」という所だと思います。例えばこれが、何らかのイベントの最中に撮った写真だったら、「このイベントに来ていたという事をシェアしたい」とか「この人に会ったことをシェアしたい」とか「このイベントに参加した時の自分の服装やメイクをシェアしたい」とか、色々と基準が生まれてくると思います。しかし、なんでもない日にはそれが生まれづらい。

イベントがあっても、タイミングをうまくつかめない

では、1月から3月まで、私の身にこういったイベントが一切なかったのか。否、そうではありません。数は多くないものの、ちょっとしたパーティーとか、まあ少しはありました。ではなぜ全然写真をアップできなかったか。明白です。圧倒的に間が悪かったのです

  • 肝心なときにiPhoneを持っていない
  • なんか恥ずかしくて「撮ろう」と言い出せない
  • 焦って撮って失敗する
  • 何回も撮り直すガッツもない

こんな感じでうまくタイミングをつかめず、チャンスを逃しまくってしまいました。 この間の悪さからも明らかになるように私が元来こういう事柄に向いていないという理由もあげられますが、これはあまりにも抜本的なので、今回は無視します。

それなら自動化…?

そんなこんなで、すっかり自分で立てた目標を忘れ、Instagramから遠のいてしまっていた頃、ブログやInstagramアカウントを見てくれた人から「あれ結局どうなったの?」「写真上げないの?」などの大変有り難いコメントを頂きました。俄然やる気になる私。でもいざ行動を起こそうと思うと、やっぱりアップロードで二の足を踏んでしまい、カメラロールは出来の悪い写真でいっぱい…。

「じゃあ、もう自動的に機械に撮ってもらおう」

予めスケジューリングしておけば、機械はイベントがあろうが無かろうが、きちんと写真を撮ってくれます。しかし、完全に全自動で写真を撮って、全自動でアップロードするシステムを作ってしまうと、非常に精度の悪い写真でアカウントを埋め尽くされ、ますますやる気を失いかねませんし、最悪、社会的に立場を悪くしかねません。「面倒くさくならない程度に自分でコントロールできて、かつ、勝手にやってほしいところは自動でやってくれる撮影システム」を検討していた所、1つの結論にたどり着きます。

それって、つまりプリクラでは…?

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プリクラと私

思い起こしてみれば、私はあまりプリクラで遊ぶタイプではありませんでした。世代的にはドンピシャなのですが、小学生時代から自分の写真写りに納得していなかった私にとって、プリクラは遊びというより、「いっくよー!!3、2、1…」と異様な剣幕ではやし立てられ、「ちょっぴりセクシーに!」などの無茶なお題をこなす、一種の修行のようなもの。

しかし「可愛さが求められるタイミングではバッチリきめて、オドケが求められればキッチリふざけて、おまけに落書きも上手!」みたいな、いわゆるプリクラ上手の友達は結構いました。今あらためて考えてみると、その友達は「写真写りをコントロールできていた」ということなのでしょう。前回の記事では、小学生時代からプリクラで楽しく遊んでいるような人との経験値の差に落胆しましたが、つまりプリクラこそが「写真写り界の大リーグボール養成ギプス」なのかもしれないのです。

つまり、「自分がどのように写真に写るか、どうすれば良い状態で写ることができるか」ということを、考えている人は10代、早ければ年齢1桁代の時から考えているということでうす。純然たる努力した時間の差。なるほど、力の差も納得です…

DIYでコンプレックス克服!写真写りをマシにしたい!〜プロトタイプでの実験 & 考察 &次の一手編〜 - LOGLOG

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しかしプリクラを撮りに、毎日ゲーセンに通い詰めるような生活はあらゆる意味で厳しい。そこで、プリクラっぽいシステムを実装してみることにしました。

プリクラっぽいシステムについて

想定したもの

私が考えた「プリクラ的なシステム」はこんな感じです。

  1. 何かのトリガーでシステムが自動的に起動する
  2. プリクラのように制限時間のなかで写真を撮影する(※ 制限時間内は撮り直しOK)
  3. 撮影した写真は自動的にInstagramにアップされる

しかし実装にあたって1つ問題が発覚します。それは、InstagramAPIが、基本的には写真投稿に対応していないっぽいということ。

www.bricoleur.co.jp

意外と気軽な雰囲気がない…

TwitterFacebookであれば、APIも公開されているし、いろんなアドオンお兄さん、お姉さんたちが使いやすいアドオンやライブラリを公開してくれているようなのですが、なんとなく自撮りを載せるのにはInstagramが一番良いような気がする…

実装したもの

そこで、実際に作ったシステムがこんな感じです。

  1. カレンダーのスケジュールから作った全体コントロール用のアプリ(AppleScript)を起動
  2. 全体コントロール用のアプリから、撮影用アプリ(oF)を起動
  3. 撮影用アプリが制限時間内に写真を撮影
  4. 全体コントロール用のアプリで撮影した写真をlatergram.meに投稿
  5. iPhoneに通知が届き、それを手動で承諾しInstagramに写真を投稿

今回はlatergram.meというwebサービスiPhoneアプリを活用することにしました。

unique-experience.xyz

もともとInstagramはPCから投稿出来ないんですよね…。このサービスを使うと簡単にPCから投稿できるので、それだけでも便利かも。

また、カレンダーのスケジュールでアプリを立ち上げるのには、こちらの記事を参考にしました。

Macのカレンダー.appを使って定期的にアプリケーションを実行してみよう | BACKSTAGE技術部

「このMac内」というカレンダーを追加するところで、ちょっとハマりかけました…

そして出来たのが、このツギハギだらけのボロボロシステム。実際に動いている所はこんな感じです。

www.youtube.com

撮影する姿に、終始迷いが見えます。

f:id:t0rakeina:20160321223413j:plain 起動と同時にカウントダウンがスタート。制限時間は仮に40秒にしてあります。

f:id:t0rakeina:20160321223535j:plain 「3、2、1 カシャ」の音とともに写真が撮影され、確認画面が表示されます。ここでOKを選択すれば撮影は終了。Retryを選択すると、もう一度撮影が始まります。

f:id:t0rakeina:20160321223858j:plain 40秒が過ぎるとタイムオーバー。たとえ不本意であろうと、最後に撮影された写真がlatergram.meにアップされます。(この文字のセンタリングがちゃんとしてない感じ、ダメ感出てますね…)

結局iPhoneから承認などの操作をしているので、自動化ではないですね。半自動化システムってところでしょうか?
しかし、iPhoneに送られてくる写真は「投稿することを決定した1枚だけ」なので、前の項で述べた「何を基準に選んでいいかわからない」という問題はクリアしている…はず!

ちなみにシステムで使用している音源は、Music is VFRさんの音源と、自分の声(加工済み)です。さすがに、これを一人で収録している時「私、何してんだろう…」と思いました。

musicisvfr.com

システムを使用してみて

感想

何回か使ってみて感じた最大の感想は、「今までになく、ちゃんと機能してるな」でした。「絶対もっとスマートなやり方があるだろ!?」とは自分でも思うのですが、とりあえず「勝手に起動する」「(ほぼ自動的に)写真を1枚まで絞り込める」「(ほぼ自動的に)写真をアップできる」という最低限の部分が動いているので、案外ストレスなく使えます。
あと、撮影する時間を自分で把握しているので「撮影の時にそこそこのコンディションでいないと」という気持ちも芽生えはじめました。撮影時間を朝に設定すると、意外と生活リズムが整ったりするかもしれません。思わぬ副次的効果…!
とりあえず、しばらく使い続けてみようかな、という感じです。

アップデート案

私がこのシステムを作るのにゴゾゴゾしていたタイミングで、こんなアプリが話題になりました。

plus.appgiga.jp

遅ればせながら私もダウンロードして遊んでいると、それを見た友人が一言。

それ、遊んでる人の顔めっちゃ面白いよ

確かに、他の人にそのアプリを紹介すると「なにこれすご〜い、ちゃんとついてくる〜」と言いながら、みんな今まで見たことないような表情筋の動かし方をして楽しんでいます。 隙だらけです。なんでこんなにみんな無邪気に遊べてしまうのか?
これは私の仮説ですが「MSQRDで遊んでいる間は、顔が単なるコントローラーでしかないから」なのではないでしょうか?
普段パソコンでキーボードを打ったり、ゲームでコントローラーを操作したりするときに、手元を気にする人は少ないでしょう。特に「その手の所作の美しさ」を気にする人はごく少数だと思われます。そんなことより文章を打つ方が大事だし、ゲームで勝つ方が大事です。つまり、MSQRDで遊んでいる時は、目の前のデカプリオやダースモールが面白い表情をすることが大事であって、その時の自分の顔にはあまり興味がいかないのです。

自撮り番外編。「他人の顔をコントロールしている」と思うと、自撮りが超ストレスフリーになる。これって何かに使えないかな…?

確かに、この瞬間は圧倒的にデカプリオの顔> 自分の顔です。
…これって使えるのでは?
とりあえず、今回作った「プリクラっぽいシステム」(大リーグボール養成ギプス風の何か)を使いながら、このあたりからヒントをもらって、ブラッシュアップしていきたいと思います。

※ この不毛な戦いの軌跡を記録しているInstagramのアカウントがこちらです↓
Instagram
アカウント名:tobephotogenic

よかったら覗いてみてください〜!

DIYでコンプレックス克服!写真写りをマシにしたい!〜プロトタイプでの実験 & 考察 &次の一手編〜

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明けまして、おめでとうございます!!
去年の6月頃にマッドマックスに関する記事をアップして以来更新できず、

t0rakeina.hatenablog.com

インターネットという名の宇宙のスペースデブリ状態だった当ブログですが、2016年はもう少し更新頻度を上げて、「ものづくり」や「映画」に関する気になったトピックについて書いていきたいですね。

新年一発目の記事は、こちらの記事の続きになります。

t0rakeina.hatenablog.com

前回までのあらすじ

迫る三十代を前にして、自分自身の成長を感じられず、焦りを感じ始めた私。「とりあえず、自分でどうにか出来そうなコンプレックスを克服しよう」という考えに至り、長年のコンプレックスであった「写真写りが悪い」という問題を解消すべく、手と頭を少しずつ動かし始めたのだった…

リサーチ編反省点まとめ

大変ありがたいことに、リサーチ編の記事を見てくれた知り合いの方々から、さまざまな感想や意見を頂くことができました。
「一人暮らしが孤独過ぎて、おかしくなったのか思った」
「どうしちゃったの?あたま大丈夫?」
など辛辣なコメントが主でしたが、中には、
「笑顔を自分で定量化するのは良いけど、あの実験方法では自撮りと変わらない」
という冷静な意見もありました!ありがとうございます…!
「よ〜し、もらったコメントを踏まえて、実験に使えるアプリを作るぞ!」と息巻いていたのですが、そんな時にお仕事が繁盛期に突入。怠惰な性格も相まって、開発や実験は一時ストップ状態に。

プロトタイプアプリ制作と実験その1

それから時は9月まで飛びます。 実は私、乙女電芸部という、「電子工作、手芸、工作などのテクニックを使った作品作りやワークショップを行うものづくりグループ」に所属しているのですが、

otomedengeibu.com

この乙女電芸部では、Maker Faire関連イベントに毎年出店しており、去年の9月に行われたYamaguchi Mini Maker Faire(YMMF)でも、作品の展示やオリジナル工作キットの販売を行いました。

YAMAGUCHI MINI MAKER FAIR 2015 | ヤマグチ・ミニ・メイカー・フェア 2015

この際「せっかくならこの"写真写りの自由研究"の事も展示しよう」と思い立ち、自分のブログの文章をリファレンスとして利用しながら、「筋電で笑顔レベルを測定し、自動的に静止画を撮影/フォルダ分けし保存する」という簡単なアプリをOpenFrameworksを使って急いで製作、乙女電芸部部長 やじまかすみ氏の協力を仰ぎ、アプリを使った実験の様子をまとめた動画をYMMFの乙女電芸部ブース内で発表しました。
その動画がこちらです。

https://youtu.be/sYyEszFSjUY


DIYでコンプレックス克服!写真写り道場

ちなみに撮影日が誕生日だったのですが、1mmも大人になれている気がしない誕生日でした…

撮影は自宅、時間は真夜中と「顔がどうこうという話をしている割には、全然ベストじゃないコンディション」のなか、「でも今撮らないとYMMFに間に合わない」という理由で撮影は強行されました。計画性の無さと、実験と撮影してくれた乙女電芸部 部長の優しさが身にしみます。
しかしこの実験がなかなか興味深い結果を叩き出しました。何が興味深いか、「制作者である私より、部長のほうが圧倒的にアプリを使いこなしている」という事です。

実験その1の考察

このアプリは、「自分の顔は見れないけど、筋電の数値は確認できるインターフェース」になっており、この数値を見ながら「それぞれの値の時の顔」を記録していくのですが、

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私の場合は、高い数値の時は顔がこわばり、逆に低い数値の時は顔が引きつっています。 一定の表情をし続けられないので、こんな感じでノイズのような真顔が記録されてしまうようです。

f:id:t0rakeina:20160106103916p:plain 辛そう…

しかし部長の場合は、高い数値の時も、低い数値の時も、どんな値の時も顔が笑顔として成立しています。さらに、それぞれのレベルの顔を、記録された写真を見ながら再現できる!つまり、数値と自分の笑顔レベルが、鏡いらずで対応付け出来ているようなのです…!

f:id:t0rakeina:20160105210725p:plain 「出来ないの?」と驚く部長。これ、実際どのくらいの人ができるものなんだろうか…

圧倒的な"何か"力の差が判明し、呆然とする私。「一体どこでこういうことを覚えたのか?」と部長に問うた所、ひとつの雑誌の名前が上がりました。それは、2015年に休刊となってしまったティーンズファッション雑誌ピチレモンです。

www.magazine-data.com

名前には覚えがありました。確かに小学生の頃、同級生が話題に出していたような記憶もあります。しかし、当時リレーの選手になれるかどうかだけを考えていた私には、雑誌というメディア自体縁遠いものでした。
部長いわく、「写真写りや自撮りは、我々が小学生当時からよく取り上げられる話題だった」とのこと。そう言われてみれば、プリクラブームはすっかり浸透済みだったし、携帯電話が普及にともなって「自撮り」という行為の認知度も上がってきた頃合いです。

これが何を意味するか。つまり、「自分がどのように写真に写るか、どうすれば良い状態で写ることができるか」ということを、考えている人は10代、早ければ年齢1桁代の時から考えているということでうす。純然たる努力した時間の差。なるほど、力の差も納得です…

"次の一手"について

自分が想像以上にスタート地点から遠い所にいた事が判明し、「どうすればよいのか…」と戸惑う私に、部長から提案がありました。

「とにかく経験とデータ(写真)が足りないんだから、自分の写真をアップするアカウントでも作ってみたら?」

なるほど、確かに「良い笑顔を作る」という訓練以前の状態の私は、「写真に写る」という経験の数をこなす必要があるでしょう。加えて、「自分が自分の写真に納得したい」ということを主なモチベーションにしていたために、撮られた写真の評価も自分一人で行っていましたが、ただでさえ肥大化した自意識と承認欲求が暴走しているような人間なので(そうでなければ、こんな自由研究を一銭も貰わずやったりしませんね…)、まずそもそも自分の顔の写真をじっくり観て評価するという行為に、多少のキツさが伴います。 自分以外の人がフラットに評価してくれる環境があれば、それは良いデータになるかもしれません。

そこで取り急ぎインスタグラムのアカウントを制作、とりあえず1日1回以上を目標に、写真(自撮り、他撮りを問わず)と撮影した時の簡単な状況説明をアップすることとしました。

こちらのアカウントです。

Instagram

やらかしてる#2016年1月2日

アカウント名:tobephotogenic

今のところ、あまり良い成果は出ていないですね…

まだ写真の数が少ないのですが、ある程度写真の数が溜まったらデータを解析、likeがつく写真の傾向などを割り出そうと考えています。つまりlikeが付かないとどうにもなりません。なんだか自ら進んで破滅の道をたどっているような気もします。もしお手すきでしたら、ご協力お願い致します。 今年こそは!このコンプレックスをどうにかするぞ〜〜!!!!

最強に優しい"リベラル"な映画『マッドマックス/怒りのデス・ロード』感想

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イモーーーーーターーーーン!!!!!! V8!V8!V8!V8!V8!

6月20日から劇場公開がスタートしたマッドマックス/怒りのデス・ロード』が、予想通りすんごい面白かった & 全然予想していないストーリーでびっくりしたので、まとめたい思います!
大丈夫だと思うけど、多少ネタバレ注意です! というか、まだ観てないかたは、とりあえず観たら良いと思います!
what a lovely day!!!(銀スプレーをプシューーーー!!!)

一言感想

身を任せれば全自動で地獄の荒野に連れて行ってくれる、超暴力的旅行型アクション映画。
そして、驚くほどリベラルな、2010年代最強の優しい映画なのかも…?
男女問わず、勇気を出したい人みんなにオススメです!!!

マッドマックス ≒ アナ雪??

予告のカッコよさと、ありえない程の下馬評の高さに、公開前から期待値上がりまくりだった『マッドマックス 怒りのデス・ロード』。とはいえ、前作の記憶はマッドマックス2多分WOWOWで観たな…小学生だったよな?…なんかマスクの人が怖かったような…」と非常に曖昧だし、あまりに上がってしまった期待値に「これはがっかりするパターンも覚悟しておかなければ…」と思いながら映画館に向かいました。

観た直後の自分を振り返ると、

という感じで、さっぱり頭が回っていないのが分かります。

「もう観たんだ〜!面白かった?」と周りの人に聞かれても「多分超面白かった…」と煮え切らない感想しか出てきませんでした。なぜなら「ストーリーらしいストーリーが無かったのに、なんであんなに感動したのか、自分でも理由がわからない」から。

確かに改造車同士がぶつかりあい景気良く爆散していく様は、観ていて最高に気持ちいいし、CGを極力廃したとは思えないヤバいアクションシーンは、全自動でテンションが上がるし、出てくるガジェットもキャラクターもワクワクさせれられるものばっかりでした。

f:id:t0rakeina:20150701002143j:plain 特に好きなのが、この後ろの、通称シルク・ド・ソレイユ。もう面白すぎるし、怖すぎるし最高。

こういったフェティッシュな部分が最高に楽しい、というのはすぐに説明がつくのですが、「なんかそれだけじゃあんなに感動しない気がするんだよな〜」と悶々としていました。

そして時間が経つに連れて、あることに気づきます。

あれ?もしかしてあの感動って、アナ雪を初めて観た時に近い…?

「いくらディズニーが好きだからって、なんでもかんでもディズニーの話に持ってくなよ!」と思われる方もいるかもしれませんが、考えれば考える程、類似点が見つかったのです。

ミュージカル映画としてのマッドマックス

比較的よく見られるアクション映画の残念なところとして、「激しいアクション(戦闘やカーチェイス)がはじまると、ストーリーの進行が止まる(遅くなる)」という点があげられるかと思います。
しかし、「全編がトレーラーなのかよ!」と思うテンポで話が進行するマッドマックスでは、息つく暇なく続くアクションシーンのなかに、「キャラクターのバックストーリー」「今何を考えて動いているか」「人間関係がどう変化したか」などの様々な情報がぶっこまれていていました。

わかりやすいポイントで言えば、ウォーボーイズの最初の戦闘シークエンス(VSヤマアラシ(?)戦)では、「ウォーボーイズの価値観・生死感」がパパっと理解できるようになっていたり

f:id:t0rakeina:20141211164208j:plain このシーン直後の「よく死んだ!」という「前後関係がわからなければ意味不明であろうセリフ」もスッと頭に入ります。

フュリオサとマックスのアクションシーンでは、「この段階で、どの程度お互いがお互いのことを信頼しているか」がセリフ抜きで分かるようになっています。 (銃を受け渡す仕草など、細やかなポイントから関係性が伺えます)

この「アクションによるストーリーテリング」がすごく良くて、「言葉にすると陳腐化しちゃいそうなベタな感情」から「言葉にするのが難しそうな繊細な感情の機微」までを、実に映画的(映像的)に、観ている我々の頭のなかに(半ば強制的に)投げ込んできます。故に、「あれ、なんで私こんなに感動してるんだろう…」と、こっちが気がつく前に泣かされてしまうわけです。

このアクションの映画内での機能が、ミュージカル映画におけるミュージカルシーンの機能とかなり近いように感じました。

アナ雪が最高のミュージカル映画だ、という話は下記の記事にまとめています。

t0rakeina.hatenablog.com

「セリフでは説明できない複雑な(グレーな)心情をきっちり歌い上げた」アナ雪の曲、特にlet it goはエルサの「自由を喜びながら、ヴィラン化してしまいそうな絶望も顔を覗かせる」という相反する感情を見事に伝えてくるのです。

セリフやモノローグではなく、それぞれの映画の大切な要素(アクションシーン、ミュージカルシーン)でキャラクターの感情を伝える、普通のことといえば普通のことなのかもしれませんが、どちらも強烈な印象を与えてくれました。

加えてマッドマックスでは、全編通して音楽がかなり意識的に使われています。

f:id:t0rakeina:20150701003135j:plain みんなだいすきドゥーフワゴン!戦意高揚音楽のためにガソリン使いすぎだろ!!!でも面白いので良し!!!

ドゥーフワゴンなどの目に見えるの音楽的要素もさることながら、シーンによってはがっつりクラシック曲を使ったり、なにしろ終始エンジン音をかっこ良く響かせてるなど、耳にも(嬉しい方向で)暴力的な映画になっています。

音楽に合わせた俳優たちのグッと来る動き( = アクションシーン) これはもう、ミュージカル映画と言っても過言じゃないのでは?と私は思います。

②女性が女性を救助するストーリー

アナ雪は、アナがエルサを(エルサがアナを)助けようとする、「女性が女性を助ける」お話でした。そしてこのストーリーが、それまでのディズニープリンセスストーリーとは違う、新しい価値観を提示する「現代的なお話」として、たくさんの人から評価されました。

今回のマッドマックスも、ざっくり言えば「女性が女性を助ける」お話です。主人公はマックスですが、彼はあくまで「女戦士(大隊長)フュリオサがワイブス(子産み女達)の亡命(?)を手助けするのを、その場の成り行き上協力する」という、巻き込まれ型の主人公なのです。 タマフルでのジョージ・ミラー監督インタビューを聞いて猛烈に納得したのが、

マッドマックス/怒りのデス・ロード』で私は、映画全体を一つの長いチェイスとして描こうと思ったわけだが、主人公たちがなぜ戦っているかといえば、それは「人間らしくあること」のためだ。モノとか財宝のために戦っているわけではない。本作にも「財宝」は出てくるが、それは人ーー〈ワイヴズ〉だ。荒廃した地で、唯一健康な女たちだからね。その〈ワイヴズ〉の存在があるからこそ、女戦士が出てくる必然性が生じる。男であってはいけない。だって、「男が別の男から女を奪おうとする」というのでは話の意味が全然違ってしまうからだ。女戦士が、(隷属状態にある)女たちの逃亡を手助けし、マックスはそれに巻き込まれる。本作における〈フェミニズム〉はストーリー上の必然なのでであって、先に〈フェミニズム〉ありきで、そこに無理やりストーリーを付け加えて映画を作ったわけではない。〈フェミニズム〉はストーリーの構造から生まれてきたものなんだ。

という部分。

www.tbsradio.jp

確かに、「男性が女性を助ける」のと「女性が女性を助ける」のでは、まったくもって話が変わってきます。
だからこそ、ストーリー上必然的に、映画前半のマックスは「自分も助かるためにフュリオサやワイブスに協力する」というスタンスを取り、「(自分が)女性達を助けてやろう」といういわゆるヒーロー的な意識はありません。そして映画後半、フュリオサやワイブスと信頼関係を気づいた後では「仲間だから協力する」というスタンスに変化します。あくまで性別や、それに付随する力の差などを見せつけたり、上から発言したりしない、フラットなキャラクターなのです。
加えて、マックスは映画の中で「様々な優しいケア」を行います。フュリオサの無茶な計画を止めるために説得したり、輸血で相手を癒やしたり。これらのケアは、これまで多くの映画で女性キャラクターがヒーローに対して行ってきたことに類似しています。どこまでもフラットなのです。

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「フュリオサと比べて、マックスが地味でいやだ!」という感想も散見されましたが、それはこの「新しいマックスのフラットさ(リベラルさ)」故だと思われます。もしかすると「マックスは絶対的なヒーローであるべき」というスタンスの旧作ファンの方にとっては、ちょっと物足りないのかもしれません。

f:id:t0rakeina:20150701003444j:plain f:id:t0rakeina:20150701003539j:plain そもそも、メル・ギブソントム・ハーディでは、俳優的にも印象がすごく違うしなぁ…

③わずかな持ち物を捨てて、前に進むべきか?否か?

アナ雪のエルサは、生まれつき「王女」という立場を持っており、この立場が、ある意味でエルサを生かし、またエルサを苦しめてもいました。 そしてエルサは、一旦はその女王という立場を捨てることで、自由を得ます。しかし、自由を得た代償として、女王という立場以外にも、家族であるアナや、故郷をである国を失いかけてしまうのです。

ワイブスはマッドマックスの世界において 美しい = 健康体 というものすごく価値のあるものを生まれつき持っています。

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故に、子産み女という立場に甘んじれば、砦に住む他の人達よりずっと贅沢な暮らしができるのです。 フュリオサにしても、「大隊長」という役職が与えられるので、あのまま砦で暮らせば程度の生活は約束されているのでしょう。しかしその立場に甘んじて良いのか? 私達は人間として尊厳を保てているのか?これが「私たちはモノではない(We Are Not Things)」というメッセージにつながり、同じく「輸血袋」と呼ばれて「完全なるモノ扱い」を受けていたマックスと意気投合できる理由にもつながります。

ポイントは「どちらも『全く何も持っていない人』ではない」ということだと思います。

例えば、「レ・ミゼラブルのファンティーヌ 」や「オリバー・ツイストのオリバー」のような、「どん底の持ち物0状態 = 失うものも何もない」というキャラクターは、マックスひとりだけです。

どちらの作品も、これが最も「見る人の共感を呼ぶポイント」だと、私は思っています。「得たいもののために、何かを捨てれるか?」 ということで苦悩するキャラクターの姿は、視聴者(少なからず映画を観る程度には生活に余裕がある人)にはリアリティを持って響くのではないでしょうか?

そして、困っているのは女性だけではない

ここまで「アナ雪とマッドマックスとの類似点」を上げてきましたが、ストーリーの必然として〈フェミニズム〉が描かれたマッドマックスでは、女性だけが思い悩むのではありません。ウォーボーイズ達もまた、さまざまなもののメタファーとして描かれています。私が 驚くほとリベラル と言っているのは特にこの部分なのです。
現代社会でも、女性に対する様々な局面での風当たりは(程度の差はあれど)強く、解決すべき問題もたくさんあります。しかし、それは女性だけではないはずです。

ウォーボーイズを奮い立たせるのは、イモータン・ジョーによるインチキ宗教への「信仰心」だけで、彼らはその価値観を軸に生き、そして死んでいきます。あの戦闘が日常であろう極限状態に加えて、短命な寿命の彼らは、「死ぬのが怖くない(ヴァルハラに行ける)」と思わなければ、死ぬことに価値を見出だせなければ、とても生きられないのでしょう。 (汚染された空気のせいで平均寿命は大体20~30歳程度だが、イモータン・ジョーはマスクで濾過した綺麗な空気を吸っているので長生きできている、という設定らしいです)

そんな中、ウォーボーイズの1人であるニュークスは不本意な形で「自分の外側の世界」に気づき、少しずつ新しい価値観を形成していきます。自分で判断し、守りたいものを守るという「主体的な行動」や、「逃げ切りたい(生き残りたい) 」という「生に執着した感情」は、彼がマックスやフュリオサ、ワイブス達と合流する以前には感じたことが無いものだったでしょう。それ故に戸惑ったり、悩んだりする様子が、ニコラス・ホルトの名演でガッツリ表現されています。(ニコラス・ホルトはこういう演技が本当に最高…!)
「外側の世界」に気づかなければ、ある意味「幸せな人生」を歩み、ある意味「幸せな死」を迎えられたかもしれません。でも、ニュークスの人生は、マックス達の出会ったことで豊かになったように見えるし、何しろ目が変化するんですよね。うつろな目から、確信がにじみ出てる目になってる。

こんな感じから f:id:t0rakeina:20150701004840j:plain

こんな感じへ f:id:t0rakeina:20150701004857p:plain

結構はっきり変化しているように思うのです…

性別に関係なく、何かぼんやりとした大きいものの為ではなく、自分の為に、そして本当に守りたいものために(何かを捨てる覚悟で)戦う勇気を問い、その勇気がほとばしってる様をダイナミックなアクションで描く、それが『マッドマックス/怒りのデス・ロード』の感動の秘密なのだと思います。

こんなことをのたまいましたが、決してバカ映画ではありません。
ただ情報量が多く、フェティッシュに楽しすぎるために、観た人が一時的にバカになるだけでした…!
そんなわけで、『マッドマックス/怒りのデス・ロード』、響く人と響かない人は結構割れるとは思いますが、本気でおすすめです!特に「アクション映画?あんまり興味ないな〜」と思ってる人とか!友達とみんなで観に行ったら楽しいと思います!
witness me!!!!!!!!!!!

DIYでコンプレックス克服!写真写りをマシにしたい!~リサーチ編~

DIYでコンプレックスを克服してみよう

6月が終わり、2015年もあっと言う間に下半期突入です。
早すぎる時の流れにビビりつつ、もうすぐやってくる来る30代を前に、

「自分が想像していた20代後半と全然違う…」
「ちゃんとした大人になれてるんだろうか…」

と、日々焦りまくっています。

きちんとした大人になりたい…! そのために「急成長する」のは無理だとしても、せめて「自分でどうにか出来そうなコンプレックス」は克服しておきたい。

そんな思いで、『ものづくり』の手を動かし始めてみました。

コンプレックス その1『写真写りが悪い』

「私、写真写りが悪いんだよね…」

そう言うと大体の人から、

「へー…」(大して変わらねーよ。写真より実物の方が良いと思ってんの?)

というリアクションをされ、残りの数%の人からは、

「『真実を写す』と書いて写真だよ?」

とダイレクトに返答されます。

言いたいことは分かります。
でも、「この写真の私(僕)、写りが悪い!」と思ったことの無い人など、この世にいるのでしょうか?

matome.naver.jp

mery.jp

ほらみんな悩んでる!

「自撮りだともうちょっとマシなのに!」
「大人数で撮った、撮り直しが出来ない集合写真で、よりによってこの顔…」

とか思うことありませんか?
私は正直、しょっちゅう思ってます。

もちろん、私の自意識がそう思わせているだけかもしれません。多分そうです。
でも、時たま「あ、これ写り良い!」思える写真を見つけた時の嬉しさは、代えがたいものがあります。今後の人生で、この嬉しい体験に遭遇する確率が上がったら、嬉しいじゃないですか。

そんなわけで今回は、『写真写りが悪い』というコンプレックスに向き合い、己の手(DIY)で、可能な限り解決していきたいと思います。

写真写りのダメポイント『こわばった笑顔』

コンプレックスを打破すべく、私はひとまず、Facebookでタグ付けされた自分の写真を眺めたりして、「写真に写ってる時の自分の写真写りダメポイント」を分析してみました。苦行でした。

そこで浮かび上がった「私の写真写り最大の問題」はこわばった笑顔!

他の人が自然に微笑んでいる写真の中、私は「全力で笑わないと誰かから殺されるの?」という力みっぷり。 顔がこわばれば目はエロ目、もしくは半目になり、口も凄い力で横に引き延ばされ、ガリガリ君の口のようなフォルムになります。

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もちろんこの他にも、

  • 風に吹かれっぱなしの自由な髪型
  • アシンメトリーでだらしない襟元(そういうデザインではない)
  • 手のやり場に困って不自然なポーズをしてる

などの問題点は散見されましたが、笑顔の酷さに比べると大したことありません。

自分でも「力みすぎてる、こわばっている」という自覚はあるのですが、どうしても50%くらいの笑顔がキープできず、シャッターが切られる直前には120%に振り切れてしまうのです。
思えば、「笑顔の力加減」なんて誰かに教わった記憶はありません。一体みんなどこで学習したんだ…。

そこで今回は、訓練によって「最適な笑顔の力加減を学習できる」ようなシステムとガジェットを、技術力が無いなりに考えていきたいと思います。

表情をセンシングする

まずは「簡単に使えそう」という理由で、ofxFaceTracker(openFrameworks のアドオン)の使用を検討しましたが、センシングがちょっとシビアだったので断念。

github.com

qiita.com

サンプルがすごく楽しかったので、こちらはこちらで、他のことにはガンガン使えそうですし、何しろ簡単なのがありがたかったです。

次に「『筋肉のこわばり』をセンシングしたいんだから、筋電センサを使うのが良いのでは?」と思い立ち、筋電センサで実験してみることにしました。

筋電センサとそのセンシング方法

そもそも筋電位とは、「筋肉を動かすときに生じる電圧のこと」です。

www.sakaimed.co.jp

そして、この電圧の変化を計測することで、特定の筋肉がどれだけ動いたかを計測するのが筋電センサです。
(間違っている所があったらご指摘願います)
さまざまなシステム、ガジェットに使用されています。ウエアラブルリモコンとか、最近ぽいですね。

tips.hecomi.com

japanese.engadget.com

Arduinoで筋電の値が取得できるキットもあるようです。便利かも。

www.fabxfab.com

また、「顔のどこをセンシングするか」という問題については、こちらのページを参考に検討してみました。

www.skincare-univ.com

http://ow.ly/3xUvxr

どうやら笑顔を作るときに使われているのは、主に大頬骨筋・小頬骨筋・頬筋・口輪筋・笑筋という5つの筋肉のようです。
なかなか複雑なシステムだったみたいですね。そして笑筋って名前、すごく潔いですね。

今回は、その中でも比較的外側(皮膚の近く)にあると思われる大頬骨筋を狙ってみることにしました。

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口を釣り上げるときに使っている筋肉のようです。

センシングテスト

まず、筋電センサでの笑顔のセンシングテストを行いました。
電極を、両方の大頬骨筋を狙って取り付けています。
どんどん笑顔のレベルを高めます。

www.youtube.com

www.youtube.com

※パーセンテージは私が勝手に設定したものです。

ひとまずこの動画を基準として、狙うべき笑顔のパーセンテージを決めていきます。

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こんなに自分の顔を並べる事自体あまり経験のないことですが、こうして比較すると

  • 30% ~ 50%くらいの笑顔は「笑え」と脅迫されてる感が無い
  • 50%くらいから違和感が出てくる
  • 60%以降は解像度が著しく下がる(80%とか90%とか難しい)
  • 60%くらいの笑顔より、30%くらいの笑顔のほうがキープしやすい

などが分かります。

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思ったより似てなかった。

こんなことしてて、逆に立派な大人から遠のいているような気もしますが…
次回の記事では、実際のシステムを作っていこうと思います。

ディズニーミュージカルの日本語吹き替えについて(アナ雪編)

先日の記事では触れられなかったのですが、シンデレラを観た際、同時上映の「アナと雪の女王 エルサのサプライズ(原題:Frozen Fever)」も観て、「アナ雪は『ディズニークラシック』として後世に残っていくんだろうな〜」と改めて感じました。


『アナと雪の女王/エルサのサプライズ』予告編 - YouTube

その勢いで、ずっと気になっていた本ディズニープリンセスと幸せの法則(荻上チキ著)」を一気読み。

「白雪姫からアナ雪までのプリンセスとその幸せの形の変遷を辿る」という感じの内容で、さらっと読めて納得度が高い、ディズニー長編アニメ好きには非常に楽しい一冊でした。
(ただ、読者が「ほぼすべてのディズニー長編アニメを観ている」ということを前提にしているため、超ネタバレ全開です)

変遷を辿ることで、アナ雪という異様な大ヒット作が「突然発生したもの」ではなく「これまでのディズニー長編アニメの流れの中にある進化系」であることがよく分かり、ファンとしてはすごく感慨深い…!

ただ、本を読んでいて気になることが1点、それは「日本語吹き替え版の歌詞」です。

アナ雪の日本語吹き替えについて

ディズニープリンセスと幸せの法則(荻上チキ著)」のなかでも、アナ雪は特にクローズアップされ、細かく考察されています。そのなかで英語版(原版)の歌詞と日本語吹き替え版の歌詞を比較する」というくだりがいくつかありました。私はここが気になったのです。

松たか子さんと神田沙也加さん、お二人の名演技と歌声により、アナ雪の日本語吹き替え版は近年稀に見る日本語ミュージカルアニメだったと思います。特にその歌声は、可愛らしくかつ迫力があり、「リトル・マーメイド」のアリエルを始めとする歴代のプリンセス達を彷彿とさせます。まさにディズニー懐古厨には涙モノ。

しかし、アナ雪の「日本語吹き替え版の歌詞」には、私も劇場公開時からほんの少しひっかかりを感じていました。「これはこれで好きだけど、なんか英語版からニュアンスが変わってない…?」と。

※ちなみに、私は「英語版(原版)」も「日本語版」も両方好きです!!

エルサ = 引きこもり?

公開当初から、アナ雪は大絶賛の一方で、様々なメディアで、様々な人から意見やコメントを受けていました。ディズニー映画がテレビなどのオープンな場で言及される事自体、それ以前では少なかった事だと思います。
その一つとして、

「アナ雪って、引きこもりの話?」

というコメントを私も耳にしました。この「エルサ = 引きこもり」という印象を決定づけたのは「For The First Time in Forever(生まれてはじめて)」という、エルサの戴冠式前に歌われる曲の、

一人でいたいのに
誰にも会いたくない

という部分だと思われます。
戴冠式の儀式の練習をするエルサが歌う歌詞です。確かにこの歌詞を見ると、「エルサは自ら望んで城に閉じこもることを選んでいる = 引きこもっている」という印象。しかし英語verはどうでしょう。

Don't let them in
don't let them see
Be the good girl you always have to be

日本語訳すると「だれも入れてはいけない、誰にも見せてはいけない、常にいい娘でいなければいけない」といった感じでしょうか。とにかくかなりニュアンスが異なることが伝わるかと思います。
そしてこの「don't let them in - 」というフレーズは、アナ雪の中で何度も繰り返されます。

  1. エルサの父(王様)がエルサに対して言い聞かせる場面
    • 「Do You Want To Build A Snowman(雪だるまつくろう)」の曲中のワンシーン。エルサが王様から手袋をもらう(つけさせられる)シーンですね。(厳密には歌詞ではなくセリフです)
  2. エルサ自身が自分に対して言い聞かせる場面
    • For The First Time in Forever(生まれてはじめて)」の前述のシーンです。
  3. エルサが雪山で自分の境遇を歌う場面
    • みんな大好き「Let it go」の前半、手袋を放り投げる印象的なシーンのちょっと前です。

この3回の反復から、「エルサは自ら望んで城に閉じこもったというよりは、あくまで父の言いつけを厳守していた(父の死後も)」「そしてその言いつけを破って自らを開放した」ということが分かります。(手袋 = 父の言いつけなのかも?)

様々な社会問題のメタファーであると評論されるアナ雪ですが、英語歌詞では、エルサは引きこもりというより社会から隠されてきた人 = 障碍者(「私宅監置」「隔離政策」)のメタファーのように感じられます。しかし日本語吹き替えの歌詞では3回の「don't let them in - 」にそれぞれ違う訳が当てられています。この違いは、話全体の印象を大きく左右するのではないでしょうか。

「日本語吹き替え歌詞で反復がなくなっている」といえば、「塔の上のラプンツェル(原題:Tangled)」でも。


塔の上のラプンツェル最新予告【高画質】 - YouTube

ヴィラン(悪役)であるゴーテルの歌う「Mother Knows Best(お母様はあなたの味方)」にもそういう箇所が見られます。

Mother knows best
Listen to your mother
It's a scary world out there
Mother knows best
One way or another
Something will go wrong, I swear

というように、タイトルにもなっている「Mother knows best(母親にはすべてお見通しよ)」というフレーズを、曲内で何度も繰り返します。そしてこれが、後半に歌われる「Mother Knows Best (リプライズ)」では、

Rapunzel knows best
Rapunzel's so mature now
Such a clever grown-up miss
Rapunzel's knows best
Fine, if you're so sure now
Go ahead, then give him this

と「Rapunzel knows best(ラプンツェルにはすべてお見通しなのかしら?)」というフレーズに変わり、ゴーテルの「嫌味っぽさ」そして「ヴィランとしての怖さ」を強調しているように感じられます。
(ここのゴーテルの迫力は、それこそ「リトル・マーメイド」のアースラ級なので、ヴィラン好きにはたまりません)

一方日本語吹き替え版では、

[お母様はあなたの味方]
信じなさい お母さまを 外は危ない
信じなさい 危険なものが ウヨウヨしてる

[お母様はあなたの味方(リプライズ)]
自分は大人で なんでも分かってるつもりなの お利口さんだこと
でもお嬢ちゃん それならあいつに 渡してみるがいい これを

ニュアンスは変わっていないものの、繰り返しによる強調はなされていません。

「そもそも、リプライズって何よ?」という方は、

リプライズとは?

こちらのページがすごくまとまっていました。ミュージカルでよく用いられる、繰り返しの手法です。

「Let it go」はポジティブな曲?

もはや、「アナ雪といえば"ありのまま"、"ありのまま"といえばアナ雪」というくらい定着した、「Let it go(日本語吹き替え)」の、

ありのままの 姿 見せるのよ
ありのままの 自分になるの

というキラーフレーズ、英語版ではどうかというと、

Let it go, let it go
Can't hold it back anymore
Let it go, let it go
Turn away and slam the door

となっています。
「Let it go」と「ありのままの」のニュアンスの違いに関しては、いろんな方が既にまとめています。

"Let it go"と「ありのまま」の違い(小野昌弘) - 個人 - Yahoo!ニュース

kiwi-english.net

「これでいいの」という繰り返し2回目の歌詞のほうが、「Let it go」の意味には近いようですね。
加えて「Turn away and slam the door(背を向けてドアをバタンと閉めて)」というフレーズ、あまりポジティブな響きは感じられません。

作品の構想段階では、エルサはヴィランだったというのは有名な話ですが、「Let it go」も元々はヴィランズナンバー(悪役のための曲)です。しかしあまりに素晴らしい曲ができてしまったので、「こんな良い曲を歌うのはヴィランじゃないだろ」→ ダブルヒロインのストーリーに改変 というのが事の顛末のようです。

matome.naver.jp

headlines.yahoo.co.jp

youpouch.com

英語版の「Let it go」の歌詞には、エルサの「開放された」「自由だ」という喜びと、ヴィランズナンバーだった頃の名残」というか、「もしかしたら悪役化していたかもしれないエルサの危なっかしい感情」みたいなものが混在しています。個人的に特に「ヴィランっぽいなー」と思うフレーズは以下の3つ。

  • No right, no wrong, no rules for me, I'm free!
  • I'm never going back, the past is in the past
  • That perfect girl is gone

ディズニーミュージカルで、これはかなり目新しいことでしょう。
この「白黒はっきりしないグレーな曲」をメインナンバーとして力強く歌い上げたことこそが、アナ雪の最大の新規性であり、大きな魅力だと私は感じています。

一方日本語吹き替え版の歌詞では、「Let it go」は極めてポジティブで、自分を支配していたものからの開放を素直に、力強く、純粋に喜んでいるよう曲(ホワイトな曲)に聞こえます。先ほど上げたフレーズを例に比較すると、

  • No right, no wrong, no rules for me, I'm free! → そうよ変わるのよ 私

  • I'm never going back, the past is in the past → 輝いていたい もう決めたの

  • That perfect girl is gone → 自分信じて

という具合です。これはこれで、後々の展開とのコントラストになってすごく良いと思うのですが、「Let it go」をホワイトな曲と捉えるか、グレーな曲と捉えるか という違いは、やっぱり全体の印象に大きく関わるのではないかと思います。

結論: 字幕版、吹き替え版、できればどっちも観てほしい

これは個人的な意見ですが、私はディズニーミュージカルにおいて日本語吹き替え版と英語版の曲は別物だと思っています。その最大の理由は、「リップシンク」です。

matome.naver.jp

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英語を発音する口に合わせて日本語を載せるのだから、当然「そのまま訳す」わけにはいきません。意訳に意訳を重ねて、「訳として成立していること」「日本語として不自然でないこと」、さらにミュージカルの場合は「(日本語として)良い歌詞であること」を両立させることが必要となります。
この「(日本語として)良い歌詞であること」を目指した努力が、過去の素晴らしいディズニーミュージカルの名訳を生んでいるのではないでしょうか。
(特にリトル・マーメイドの日本語吹き替え版[1989年]は、本当に最高です…!!)
しかし、過去の作品では曲が別物になっていても作品の印象が変わることはなかったように思います。ではなぜ、アナ雪は作品全体の印象が変わってくるのか?

アナ雪は、過去の作品と比べると、作品が伝えようとしているメッセージが少し複雑です。そして作品がミュージカルとして優れており、そのメッセージは歌に込められています。故に歌詞のニュアンスが変わると、メッセージの伝わり方(プライオリティなど)が変わり、話全体の印象が変わるのではないか というのが私の仮設です。
加えて、「日本語吹き替え版」の消費者の多くは日本人です。つまり訳す際に「日本人の心に響くにはどうすればよいか」という事も考えなければならないのでしょう。それを考えた結果が、「エルサ = 引きこもりのメタファー」という解釈や、「ありのままの」というキラーフレーズの誕生なのだと思います。

つまり、アナ雪に関しては、曲に限らず、作品自体が日本語吹き替え版と英語版では別物になっていると、私は思うのです。 もしもどちらか片方だけ観て、「なんかピンとこないな〜」と思った人には、ぜひぜひ、自分がまだ見ていないバージョンを見て頂きたい!印象がかなり違う可能性があります!

スーパー長い記事になってしまった…。本当は「リトル・マーメイドの日本語吹き替え版歌詞 修正問題」や、「ベイマックスの本気すぎる日本語吹き替え」などにも触れたかったのですが、それはまた今後まとめられればと思います。