LOGLOG

『映画』や『ガジェット』や『ものづくり』のことなど、気になった事をまとめていきます。

DIYでコンプレックス克服!~父と私とSNS、写真との復縁を目指して~

前回までのあらすじ

30歳になる前に、自分のできる範囲で、これまで悩んできたコンプレックスを解決しようと動き出した私は、「写真写りが悪い」という自分最大のコンプレックス解消のために試行錯誤を始めた。しかし、笑顔度を計測するでデバイスをプロトタイプするものの、自分で作ったのに自分でうまく扱えないなかったり(アドバイスしてくれた友人の方が扱いがうまい)、写真に撮られ慣れるためにパソコンにプリクラ機能を足してみたものの、自分で作ったのにもかかわらず激しいストレスを感じて逃げ出したり、まったくまともな成果が出ないまま、ただただ2年の歳月が流れたのであった…

その1
t0rakeina.hatenablog.com

その2
t0rakeina.hatenablog.com

その3
t0rakeina.hatenablog.com

そんな訳で今回は、あまりにも進捗が少ない事実を鑑みて、「なんでこんなに写真写りが悪いのか」、また「なんでこんなに写真写りの悪さが気になるのか」ということを、自分の半生を振り返りつつ考えてみることにしました。

父と私と写真

私の父は、写真を撮ることを生業としている人です。時々、大学で写真について教えたりもしています。

www.instagram.com

夢を曵く/To photograph a dream

Pentax+ / 写真三昧 vol.65

父のInstagramや関連記事。こんな感じの写真を撮ります。父がいかにややこしいアーティスティックな人か理解してもらえるかと思います。
(ちなみに仕事を大募集中らしいです。ご興味のある方はご連絡ください)

そんな父の「一番身近な被写体(こども)」である私は、当然様々な現場に駆り出され、写真のモデルを一種の「お手伝い」として行うことになります。この話をすると大多数の人に、「ああ、ちびまる子ちゃんのタマちゃんみたいな感じね」と言われますが、全く違います。ほぼ対極です。どちらかといえば星一徹です。

f:id:t0rakeina:20170608101546j:plain:w280 f:id:t0rakeina:20080217145217j:plain:w280

とにかく父は指示が細かい&よく怒る。私以外のものを撮っている時は比較的おおらかですが、こと身内の私を写すとなると「自分のビジョンに可能な限り近づけたい」という気持ちが出るのか、立ち位置や顔の向きや腕のポーズなどにミリ単位の指示をしたり、シャッターを切る瞬間に目をつぶると本気で怒ったりと、正直大変面倒くさい。しかも、父が撮るのはいわゆるアートっぽい写真。どれだけ辛くても、自分が可愛く写っていれば幼い私も納得したかもしれません。しかし実際には、号泣していたり不貞腐れたりしているブサイクな顔をわざわざ狙って撮られたり、私に一切ピントが合っていなかったり、後ろ姿や腕しか写っていなかったりと、自己顕示欲求を一切満たしてくれないものばかり。私にとって「写真のモデル = 面倒臭い上に面白くない、一番やりたくないお手伝い」でしかありませんでした。

風船を体中に巻きつけられたこともあります。海沿いの公園で、部活で走り込み中らしい中学生集団のヒソヒソ声も聞こえて、端的に言って地獄。

また今回この記事を書いたことで「ググれば色々出てくる」ということがわかりました。ギャー!!

そんなわけで、自意識が芽生えてから家から遠い高校に通い出すまでの間、父から「明日モデルしてくれる?」と聞かれたら、隠れてコソコソ「逆さ坊主」をつくって雨を祈ったりするような子供時代を過ごした私は、写真に撮られることがちょっとしたトラウマになってしまいました。

ただその一方で、父の仕事は、写真(特に作品としての写真)を私にとって身近なものにもしていました。 父の撮った大小様々なサイズにプリントされた写真、父が被写体として使う謎の置物やアンティークのおもちゃ、高さがぴったりという理由で絵本の棚に並べられた写真雑誌や写真集…いわゆる「家族の思い出アルバム」のようなものはほぼ皆無でしたが、写真は家の中に溢れていました。昔から根っからのインドア派だった私は、わりとしょっちゅう謎の置物やおもちゃで遊んだり、写真集や雑誌を眺めたりして過ごしたような記憶があります。また、雑誌などが古くなってくると「好きな写真を切り抜いていいよ」という許可も降りたので、いくつか小さめの写真を見繕ってシルバニアファミリーの家に飾ったり、切り抜いて人形代わりにしたりしていました。 そんななかでも、父が傾倒していたロバート・フランクの写真は、いわゆるキレイな写真とは違って、幼心に「身ちゃいけないものを見ている」ような面白さがあり、よく眺めていました。

www.youtube.com

ダイアン・アーバスの写真集なんかもノーガードで置かれていたので、どひゃ〜〜!と思いながら見てました

www.youtube.com

この背徳的な感じちょっと怖くて、でも面白い感覚は結構強烈で、デジスタを必死に観始めたり、ストップモーションアニメに興味を持つきっかけになったりと、その後の私の進路にも少なからず影響しているような気がします。
自分が撮影されない限り、写真は私にとって、自分をいい塩梅で怖がらせてくれつつ、写っている人の視線を辿ったり、どんな場所で撮ったのか考えたりして遊べる、情報量の多い絵本のような、身近で親しみ深い存在でした。

押し寄せるSNSの波

そして、写真に対して微妙に矛盾した感情を抱えつつ成長し、だんだん父のお手伝いからも遠ざかった私のもとに、SNSの波が押し寄せます。「ネットに顔はださない」「ネットに名前を晒さない」というそれまでの暗黙のルールが、Facebookなどの登場により劇的に変化し、ネット上には沢山の人の顔が、名前と紐付けられた情報として溢れ出しました。これにより、写真の(特に人の顔の映ったもの)あり方はそれまでとは全く変わったように思います。もしもここまでSNSの類が大流行しなければ、写真を撮るタイミングや頻度は変化しなくとも、写真に対して他者がフィードバックを返すカルチャーはここまで発展しなかったでしょう。自分が写っている写真が、自分と紐付けられた情報として、自分の手の微妙~に届かないところまで広がり、良いにせよ悪いにせよフィードバックを受け取ることが出来る。少し前であれば、ちょっとした有名人以上の人だけが抱える悩みが、一般人の私たちのところまでリーチしてきた感じがしたのを覚えています。 もちろん、こんな時代においても「顔を出さない」を貫いている人もいますし、そういう楽しみ方も出来ます。若者のFacebook離れなんていうギョッとする言葉も生まれてきているので「情報を四方八方に広げる、シェアする」というのはこの辺りで打ち止めなのかもしれません。もちろん私も、思う所があればそういったスタンスを取ることも全然可能なんですが…もともと自意識のバケモノ&自己顕示欲求が強い人間な上に、人の情報を見る時も「顔が写ってる情報の方が面白い気がする」という自身のスタンスも相まって、「顔を出さない」というクールな姿勢も貫けず、「なんとか十人並みにこなしたい…!」中途半端な写真を撮り、中途半端な仕上がりで人の写真に写り、微妙な写真がインターネット上の「私」を形成する、という、ちょっとディストピアっぽいループに陥ったのです。

f:id:t0rakeina:20170608135849j:plain

このように、もともと写真に撮られることに若干のトラウマめいた感情があったことと、SNS時代の自己顕示欲求との間で揺らぎながら、今現代私の抱くコンプレックスが形成、肥大化していったと考えれます。

写真との復縁に向けて

振り返ったことで、家庭環境とSNS事情が相まって、今の私の強烈なコンプレックスが出来上がったことがわかりました。では、そのコンプレックスにどう対応するか?

カメラの気持ちになる/仲良くなる

この字面だけだとまた友人から心配されてしまいそうですが、今回半生を振り返ったことで一番びっくりしたのは、「私、基本的にはわりと写真好きじゃん」ということです。学生時代は、こどもの頃の記憶と、父から発される「お前は写真に興味がないんかオーラ」にアテられていたせいで「誰が写真なんか!」と思っていましたが、よくよく考えてみれば今の好きなものの傾向も、今アートっぽい業界で働いているのも、原点は結局この辺なのかもしれません。なんとなく写真全体に対してネガティブなイメージを抱いていたけど、苦手なのは「写ること」であって、「写真自体を見る行為」などは、どちらかといえば好きな行為に含まれる…ということまで分解して考えることができなくなっていたようです。自己顕示欲求を押さえ込むのは難しいけど、写真の、特に「撮影」に対して私が持っているイメージが変われば、写真に写ることに対しても不必要にビビったりしなくなるかもしれない…!そこで、一番苦手な写真に撮られるという事に注力するのではなく、写真撮影とカメラそのものと歩み寄ってみる方法について、少し考えてみることにしました。次回の記事では、その実践例として、「カメラと身体のファンクションを繋いだプロトタイプ」について書いてみようと思います。