LOGLOG

『映画』や『ガジェット』や『ものづくり』のことなど、気になった事をまとめていきます。

「どうしてもノレませんでした…」 映画 ワンダーウーマン 感想

注意:この記事は、映画「ワンダーウーマン」にいまいちノレなかった人間が書いたものです。また文中に作品のネタバレも含みます。ご注意下さい。

www.youtube.com

ワンダーウーマン観てきました

アメリカに来てからこれで映画館で映画を観るのは5本目、こちらでは随分前から公開していたのに見逃していた「ワンダーウーマン」を観てきました。
正直な感想は「私向けじゃねえ!!!」でした。

普段あまり批判的なレビューは書かないようにしているのですが、特に今作はあまり批判的な声を聞かないので、自分の思った事を素直に書いておこうと思います。

好きだったところ

ガル・ガドットの圧倒的美しさ

そこに存在するだけで華のある俳優さんでした。戦うシーンでは野生動物のような凛とした美しさを讃え、お茶目な天然シーンもばっちりハマる、ものすごいチャームだと思います。ワイルドスピード常連組ですが、これを期に今後他の映画にもバカスカ映画に出てほしい!!
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楽しいアクションシーン

「スローモーションはいい加減どうなん?ザックよ…」と思わなくもないですが(今回どのくらいザック・スナイダーが関わっているか分かりませんので…)、ガル・ガドットの美しさと相まって個人的にはアガりました。とかく見辛い事の多い戦時下の戦闘シーンもかなり観やすかったし、狭い場所/広い場所両方の見せ場もあるので、痒いところに手が届くなーという印象。テーマソングがかかるタイミングなども、コテコテだけどとても好き。
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いい感じのキャスティング

クリス・パイン演じるスティーブ・トレバーを始め、主役以外のキャラクターたちも、ぴったりな配役で楽しかったです。個人的には映画 コングレス未来学会議 以降、ロビン・ライトに魅了されっぱなしなので、今回のアンティオペ(ダイアナの叔母)の役所も嬉しかったです。ギラギラした戦士顔が素敵。
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映画『コングレス未来学会議』公式サイト

今回の敵役であるドクター・ポイズンを演じたエレナ・アナヤも気になりました!(キャラクター造形はともかく、このキャラクターの置かれたポジショニングには思うところがありますが…)

そう!良いところは色々ある!ただ!ただ、私はワンダーウーマンの主人公ダイアナの「主人公像」にさっぱりノレませんでした。
以下、その理由を考えてみました。

強い女性としてのワンダーウーマン

おそらく本作の一番のセールスポイントである「女性のスーパーヒーロー」という設定自体が、正直私にはあまり目新しいものに感じられなかったことが、私が肩透かし感を感じた大きな要因だと思われます。
セーラームーンレイアースを嗜み、カードキャプターさくら少女革命ウテナを履修し、プリキュアにも手を出している私にとって、「強くて可愛い女の子」「女の子が正義のために戦う」「女の子が友達や恋人を守る」というのは、物語の中ではごくごく普通。またスタジオジブリという巨大なリファレンスもあり、そちらはそちらで強い女性のオンパレード。特にそちらからはクシャナ(特に原作版)やエボシ御前などの「大人の強い女性」というキャラクター像もインプットされています。
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日本の作品ばかりになってしまいましたが、ディズニーのディズニープリンセス達も、時代のなかで「逞しい女性像」を作ってきていると思うし、最新作であるモアナと伝説の海のモアナのフラットさは、その究極系と言えるのではないでしょうか?
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こういった自分の中のリファレンスと比較して、ワンダーウーマンのダイアナは、新鮮なキャラクターというよりは、ある種おなじみのキャラクターでした。お姫様で外の世界を知らず、正義感が強く自立していて、自ら進んで戦地に赴く…「スーパーヒーローである」「第一次世界大戦下が舞台」という事を除くと、よりおなじみ感が強まるかと思います。(舞台設定は重要な要素なのでキャラクターからそれを引き算するのは難しいとは思いますが)
最大の違いはターゲット層の差かな?とは思うのですが、前評判から「新鮮な女性ヒーロー像」を期待していた私は、ちょっと「あれー…」となってしまいました。

主人公としてのワンダーウーマン

とは言えおなじみの主人公だからノレないなんてことも無いはず…なのですが…。ここからは特に個人的な趣向の話になりますが、ダイアナの性格が私にはちょっとダメでした。 ダイアナを見ながら真っ先に思い出したのは、風の谷のナウシカナウシカ20世紀少年のカンナ、そしてワンピースのルフィなど。いづれも周囲を引っ張る力と魅力に溢れ、タフで頑固ながらも周囲の理解を得て目標へと突き進む、根強い人気の主人公達です。人気の理由もすごくわかります。ただ、私は彼らを見ていると、「頑固でメンタルもフィジカルも超強い人、何もかもハンドリングできちゃいそうでちょっと怖い!」と思ってしまうのです。危険を顧みず突き進む姿にも「やー…そりゃあんたは大丈夫だろうけど他の人は付いてくの大変なんじゃない?」みたいな。 個人的に封神演義太公望のような主人公、また同じ20世紀少年では響子が、風の谷のナウシカだったらクシャナの方が好き。こればっかりは完全に個人の好みの問題なのですが、立ちはだかる困難を前に、格好良くない姿も晒しながら、なんとか進もうとしている人間臭いキャラクターが好みなので。 f:id:t0rakeina:20170828091018j:plain

神話としてのワンダーウーマン

さらにダイアナは、私が思い起こした主人公達と比べても、より汚れなき人/無垢な人として描かれていたと思います。
ダイアナはスティーブと会うまで男性という生き物にあったことがありません。なので「男性や外の世界に関する天然っぽい質問をスティーブにぶつけて、彼や周囲の人が面を食らう」というコミカルなシーンが多々出てきます。「大人の女性が主人公である」ということがこの映画の一つのセールスポイントになっていたかと思いますが、彼女のそれらの描写は、演じている俳優の年齢などとは関係なく、幼さや処女性を私には感じさせます。もっと言えば「神話っぽいキャラクター」という感じ。美しさへの言及も多いし。
ストーリーが進むに連れ、ダイアナとスティーブは戦いのなかで心を通じあわせ、一晩を共にします。そしてスティーブは、ダイアナの戦いとは違うレイヤーの問題を解決するために、自分を犠牲にする事を選びます。(ちなみに、この戦いのレイヤーがはっきり違う事と、ここで最後にスティーブがダイアナに言う「僕は今日を守る。君は世界を守れ」というセリフは好きでした。スティーブはダイアナのような圧倒的な力を目にしても、腐らず冷静に、自分にできる最大限の事をしようとしてる感じが良かった!)
ダイアナはスティーブの死を知り、自身の真の力に覚醒。彼を失った事への怒りに飲まれそうになるものの、彼から受け取った言葉や愛情から人間と愛を信じる事を決め、圧倒的な力で大ボスを倒します。結局ダイアナの初恋は、悲劇的ながらも自らの成長へダイレクトで繋がっており、また悲劇的故にパーフェクトなものへと昇華されたように見えました。死んでしまった人には敵わないし、生きていれば2人の間にいずれ起きたかもしれない問題(仲違いや、スティーブだけが老いていく事など)とも無縁。なんか…とてもクリーン…だなと…。
もちろん神話的なことが悪いということではありません。(作劇的にハラハラしづらいという弱点はあると思いますが…) ただ、戦時下を舞台にここまでホコリひとつ被らないダイアナに「うーーーん、ノレない!」と思ってしまいました。他のキャラクターは様々な苦悩や暗い過去を抱えているような描写(スティーブのスパイ活動では色々あったっぽい等)があるので、意図的に「浮いてる感じ」を演出しているとは思うのですが…

そもそも、外の世界から「戦争という恐ろしいものがあるから今すぐ止めなきゃ!」と一個人ではなかなか抱けないような大きな目標を掲げてやって来たのに、第三者的介入では無くたまたま知り合ったスティーブの側に完全に仲間入りするのにも少し「?」になりました。これ、出会った順番がドイツ軍の方が先で、そちら視点の説明を受けていたらそっちに加担したの?とか。ものすごく気になるといわけではないのですが…序盤だったのでちょっと引っかかりました。

news.livedoor.com

私はこの映画のヒットが「後退」だとは全然思いません。神話的にスーパーな女性ヒーローというキャラクターがいること自体は「色々なキャラクター像の1つ」として、とてもいい事だと思います。(アナ雪を観た友人から「王子様を待ってる女は絶対にダメって言われてる気がして辛かった」という感想を聞いたこともあり、色々なキャラクターが存在することが重要なんだなーと改めて思ったりしたので) ただ、ダイアナが「先進的なキャラクター」と言われたり、映画ワンダーウーマン自体が「新しい時代の夜明けの象徴」と言われる事には、やっぱりちょっと違和感があります。 私には分からないコンテクストからの評価もあるとは思いますが…(女性監督など)

また、同時期に公開されているスパイダーマン ホームカミングでは、「高校生」「15歳」などの若さや爽やかさがプッシュされつつも、終盤、ヒーローとして生きる上でのかなり苦しいジャッジを迫られるシーンなどが用意されていました。あのシーンで、ピーターは「決定的に普通の男の子に戻れなくなったな」と思うし、完全にクリーンで無垢な少年ではいられなくなったと思います。そう思うとこの2作はかなり対比的…!

www.spiderman-movie.jp

本当にこの夏は、DC・エクステンディッド・ユニバースとマーベルシネマティックユニバースの違いが明確になった夏だったな〜と思います。DC・エクステンディッド・ユニバースは、思い起こせば、マン・オブ・スティールもバットマンVSスーパーマンも神話めいているよな〜

色々な意味で重要な作品ではあるとは思うのですが、私個人としては「あまりノレない主人公の、クラシックな作りのヒーロームービー」でした。

映画についてゴチャゴチャ考える ~「ポップな黄泉の国シーン」について~

「ポップな黄泉の国シーン」とは

「ポップな黄泉の国シーン」というのは、友人と考えた言い回しで、映画などにある本筋からは若干浮いていて、多幸感溢れる、でも同時に不安で切ない気持ちにさせるシーンを指します。すごい好きなんですよねー、これが。

最も分かりやすい具体例は、映画ジャージー・ボーイズ(2014)のエンディングシーン。 f:id:t0rakeina:20170727102112j:plain 映画『ジャージー・ボーイズ』予告編(ロングバージョン)【HD】 2014年9月27日公開 - YouTube

「ディズニーランドのイッツ・ア・スモールワールドに乗ってると、基本的には楽しいんだけど、ふと、もしかしたら、ここは死後の世界かもしれないと考えて不安になる」なんかがちょっと近い感覚だと思います。完璧すぎて逆に危ういというか… f:id:t0rakeina:20170727183122j:plain ※ ちなみに私はイッツ・ア・スモールワールド大好きです!

黄泉の国の条件

私が「あ、これはポップな黄泉の国シーンだな」と思う条件は以下の通りです。

  1. 本編と舞台設定/キャラクターの心情などがあまり繋がってない
  2. 作中に出てくる主要なキャラクターがほぼ全員集合している/とにかく大人数が出てくる
  3. 出てきたキャラクターほぼ全員が楽しそうにしている
  4. 全員がなんらかの行為(踊ったり歌ったり)に集中している
  5. 本編中に「黄泉の国シーン」と対比になるような辛い展開がある

ジャージーボーイズの件のシーンは、
「メインメンバーが突如若返る」という流れをぶった切った展開
絶縁状態になっていたキャラクターも含めてほぼ全員が登場
全員が笑顔で歌い踊る
と、上記の条件を全て満たしています。余談ですが特典映像では監督も踊っていました。すごく可愛い。

この「ポップな黄泉の国シーン」、そもそもは舞台で行われるカーテンコール(登場人物が全員で舞台上に出てきて、客席に挨拶/お辞儀をするアレ)を踏襲した表現だと思われます。
例えば、ミュージカル コーラスラインは、「新作ミュージカルのコーラスダンサーを選ぶオーディションでの出来事」という内容で、そのラストはこんな展開です。
キャラクター達にオーディションの合否が告げられる それぞれのキャラクターが合否に対するリアクションを取りながら舞台が暗転再び明転するとオーディションに落ちたキャラクターを含めた全員が、新作ミュージカルのための曲で歌い踊り、そのままカーテンコールへ
私と、一緒にこの言い回しを考えてくれた友人はこのコーラスラインが大好きなので、おそらくこれが私たちのなかでのベンチマークになっている模様。 www.shiki.jp

ちなみにこのコーラスラインの映画版は正直「うーん…」という感想なのですが、8ヶ月に及ぶ実際のオーディションの様子を撮影したドキュメンタリー映画 「ブロードウェイ ブロードウェイ コーラスラインにかける夢(2008年)」 は超最高だったのでオススメです。
www.youtube.com

「ミュージカルのオーディションの様子をミュージカルにした作品の出演者を決めるオーディション」という、ちょっと脳みそが混乱する内容ですが、「オーディションのその瞬間ノッてる人(本人のポテンシャル以上なんじゃないかっていう猛烈な演技をする人)/ノッてない人(明らかに自分の100%を出せてない感じの人)」という、どうにも言語化の難しい人間のパフォーマンスをアーカイブ出来てしまっている、ちょっと強烈な映画。

オススメの黄泉の国

以下、黄泉の国シーンと思われるものをリストアップしておきます。

映画 「エンジェルウォーズ(2011年) 」エンドロール

f:id:t0rakeina:20170727103658j:plain 映画 『エンジェル ウォーズ』 予告編 - YouTube
「えー!そうくるー!?」というビックリなオチの直後いきなり舞台セットが現れ宿敵が歌い出すという、多幸感はともかく流れぶった切り&全員集合の最高のエンドロール(カーテンコール)です。ゴージャスすぎて面白い。本編自体も3層(?)構造を持つ映画ですが、最後の最後にもう1レイヤー足してきた感じ。

映画 「playback(2012年) 」終盤のスケートボードのシーン

f:id:t0rakeina:20170727103707j:plain 映画『Playback』予告編 - YouTube
「大量のスケートボーダーが思い思いに走り去っていく」というシーンで、そんなに尺が長いわけでもないのですが、すごく印象的でした。ボーター達みんなが楽しそうなのと、このシーンへの入り方がものすごくカッコよくて、カッコよすぎてここじゃないどこかと繋がっちゃった感が出てる気がします。最高に黄泉の国っぽい。

映画 「サニー永遠の仲間たち(2012年)」 葬式ダンスシーン

f:id:t0rakeina:20170727103648j:plain 映画『サニー 永遠の仲間たち』予告編 - YouTube
これは、本編の流れに乗っていると言えばのっているのですが、やっぱり「葬式会場で全員満面の笑みでダンス」という違和感(超現実感)が黄泉の国っぽいし、多幸感が半端じゃ無い!結局テメーの好みじゃねーかという感じですが、いいシーンなんですよ…

アニメ「血界戦線(2015年)」エンディング

f:id:t0rakeina:20170727103653j:plain TVアニメ『血界戦線』公式サイト
乱暴な言い方をすれば「エンディングへの入り方&エンディングを観るため」に観てました!勿論本編も楽しいのですが、毎回凝ったエンディングへの入り方をして目が離せない…!肝心のエンディングも、上記の黄泉の国シーンの全項目を満たしてますね。舞台セットで全員が踊る!敵も踊る!敵とも踊る!不穏な空気もちゃんとあって100点です。

映画 「Sing Street(2016年)」「Drive It Like You Stole It」の流れる体育館のシーン

f:id:t0rakeina:20170121230525j:plain 主人公の妄想が具現化され、彼の考える「パーフェクトなPV」として展開するシーンなのですが、本編では結構キツイことが色々起こっている中、彼の妄想(ヒロイン、両親、兄に対する願望)が良い方に良い方にドライブしていく様がなんとも切ない。まさしくハッピー・サッド

映画 「LaLaLand(2016年)」 「Another Day of Sun」の流れる冒頭の高速道路のシーン、ラストの白昼夢(?)シーン

f:id:t0rakeina:20170727103849j:plain 冒頭のシーンは、主要キャラクターどころか主人公二人すらまだ登場していませんが、とにかく猛烈な黄泉の国っぽさを感じます。「いや〜これはもう確実でしょ。死んでるでしょ」って感じ。実際は誰も死んでないんですけど、何なんですかね、完璧過ぎる雰囲気にアテられてるんでしょうか…?(イッツ・ア・スモールワールドっぽさ?) ラストのシーンは言わずもがな。ただ「どちらがより黄泉の国シーンか?」と聞かれたら、冒頭のシーンって答える気がします。

次点 黄泉の国

「スラムドッグ$ミリオネア(2008年)」のエンドロールもかなりそれっぽいんですが、主人公とヒロインにフォーカスに集中してるので、微妙に違うかな〜。「きっと、うまくいく(2009年)」のようなインド映画や、「スラムドッグ$ミリオネア」のようにインドを舞台にした映画はガッツリミュージカルシーンが入ることが多いですが、私の見た範囲では「唐突ながらも作中のストーリーやキャラクターの感情の流れに沿ったミュージカルシーンが多い = 黄泉の国表現とはちょっと違う」という印象です。 余談ですが、この系統の亜種として監督がインド系の方でそのノリがラストで突然発揮される白雪姫と鏡の女王(2012年)」もありますね。あれはびっくりした。 f:id:t0rakeina:20170727110829j:plain:w260 f:id:t0rakeina:20170727110849j:plain:w280

ダンサー・イン・ザ・ダーク(2000年)」も勿論近いのですが、あの映画のミュージカルシーンは全員集合感もないし、多幸感にはほど遠いというか不吉丸出しというか…(すごい面白いけど二度と見たくない映画殿堂入り)「黄泉の国っぽいシーン」と本編の落差がちょっと少ない気がします。 f:id:t0rakeina:20170727111048j:plain

ドラマ逃げるは恥だが役に立つ(2016年)」のエンディングもかなり近いのですが、あまりにほの暗い所が無いというか、本編とテンションが一緒だからかなぁ…。なんとなく違う印象です。我ながらすごく面倒くさいな… f:id:t0rakeina:20170727111505p:plain

また、ライムスター宇多丸さんが作られたと思われる「打ち上げ映画」という概念は、少し「黄泉の国シーン」に近いかもしれません。特に「エクスペンダブルズ(2010年)」の大ラスの打ち上げシーンは、みんなものすごく楽しそうに(しかも長い尺を使って)飲んでるし、打ち上げることに集中してるし、作中で仲間を裏切るガンナーもさらっと参加しちゃうし、黄泉の国度高めと言えるでしょう。続編がなかったらランキング入りだったかな… f:id:t0rakeina:20170727111723j:plain

こんな感じで、最近はこの「ポップな黄泉の国シーン」の含まれる映像作品を探しています。オススメの物があったら教えて頂きたいです…!

DIYでコンプレックス克服! ~写真と自分のコンディション+逆向きアプローチ~

前回まで

写真写りが悪いことがコンプレックスな私は、それを解消するツールを作っては投げ出し、作っては投げ出し…を繰り返して早二年。思わしい成果が得られず、前回の記事では原点に立ち返り「なんで自分はそんなに写真写りが悪いのか」ということを、写真家である父との被写体役だった自分との関係性から紐解き、「写真を撮られること自体がプチトラウマ。とはいえ写真自体が嫌いではない(むしろ好き)なので、写真と仲良くなりたい」と結論づけ、「『写真と仲良くなる』を目標に、インタラクションを通じて何か策をこうじたい」とふんわり締めくくりました。
t0rakeina.hatenablog.com

今回は、とりあえず自分が写真に関わっている時に「どんな状態なのか」を確認することにしました。すぐに試せそうなところで、「自撮りを撮っている時の心拍」を計測して、どのくらい緊張しているのか(ナーバスになっているのか)を調べてみます。

実験の流れ

実験に使ったのは以下の道具です。

心拍(パルス)センサー

www.switch-science.com
今回は耳に取り付けて使用します

Arduino

www.arduino.cc

Openframeworks (Mac)

openframeworks.cc github.com 今回はこちらのAddonを使用させて頂き、カメラとしてMacの内蔵カメラを使用しました。  

実験の様子

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孤独な実験なので、実験の様子を撮影してくれる人もいないので図解してみます。1人で休日に(しかもわざわざ海外で)一体何をやっているんだ感が過去最高に高い…

Macの内蔵カメラを使用した自撮りを、以下の3つの撮影方法に分けてみました。

Macの画面を見ながら撮影

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写りを常に確認しながら撮影する、いわゆる普通の自撮りです。

Macを見ないようにしながら撮影

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明後日の方向を見ながら撮影。写りは一切確認できません。

この2つの撮影方法で「笑顔を作る」「表情を特に意識しない」の2種類、計2 × 2 = 4パターンの写真を、各パターン3回づつ撮影し、3回分のBPM(心拍)の平均値を出してみました。 加えて、比較対象として「特に何もしていない状態の心拍」も3回計測し、その平均値も算出しました。

予想

なんとなく体感的に、「笑顔を作る」状態の方が、「表情を見せ特に意識しない」状態よりも緊張する気がします。また、カメラを完全に見ていない方が多少気楽…か?

結果

結果は、こんな感じになりました。

撮影方法 心拍数BPM
何もしていない時 70
画面を見ながら撮影 × 表情自由 73
画面を見ながら撮影 × 笑顔 76
Macを見ないように撮影 × 表情自由 73
Macを見ないように撮影 × 笑顔 81

もっと回数を撮影すれば数値の制度が出そうな気がしますが、この結果からも、 「笑顔を作っている時の方が緊張している」「視界に自分の姿が入っている時の方が緊張していない」とは言えるのではないかと思います。

考察

緊張のファクター

笑顔が緊張のファクターというのは予想通りでしたが、視界の中心に自分が写っている = 超普通の自撮り状態の方が、その他の撮影方法の時より緊張していないというのはちょっと意外でした。過去の記事で「人に撮られるよりは自撮りの方が写真写りが若干マシ」とは書いていたものの、それはあくまで「写り方を直前まで確認できる」からであって、自意識おばけの私的には、自分以外の人がシャッターを切る方が諦めがつくというか、「もーどうでもいいわい!」とやけくそになれる分気楽だと思っていたのですが、どうやらそうでも無いご様子です。この結果を見た私は、少し前に誰かから聞いた「行為の『主体』について」の話を思い出しました。

一人の身体に2つの役割

「例えば、自分の右手と自分の左膝が触れ合っている時、『右手が左膝に触っている』と感じるが、『左膝が右手に触っている』とは感じづらい。自分自身に触れるという1人の人間の中で完結している行為であっても、行為をする側(主体)とされる側が存在する」という話です。
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なんらかの文献がリファレンスになっていたと思うのですが発見できず…(もしご存知の方がいたらご一報願います…!) 「自撮りも、自分自身に触る時と同じように、行為をする側である撮影者と、行為を受ける側である被写体との2つの立場が同時に1人の人の中に存在する行為だな。もしかして私は、意識の『被写体側の割合』が高まると緊張するのではないか?」と思い至ったのです。

意識の撮影者割合と被写体割合

例えば画面を見ながら撮影 × 表情自由 などの画面を見ている状態は、「写り方を常に目で見て確認しながら撮影できる」状態です。私は「この状態のほうが自意識が暴走してしんどそう…」と思いましたが、意識の撮影者割合が高い状態とも言えるでしょう。 f:id:t0rakeina:20170723181144p:plain:w600
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同じ撮影方法でも、画面を見ながら撮影 × 笑顔の時のように笑顔を作ると緊張度が上がるのは、「作った笑顔をキープするためには、顔を緊張させ続けなければいけない」→ 「写り方を確認する撮影者としての行為よりも、顔を緊張させ続ける被写体側の行為の方がパワーを使う」→「意識の被写体割合が高まる」という感じな気がします。 笑顔以外にも、特殊なポーズをとる、通常ありえないほど人に接近する、なども緊張し続けなければいけないので、より割合を上げそうです。
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興味深いのは、

撮影方法 心拍数BPM
Macを見ないように撮影 × 表情自由 73
Macを見ないように撮影 × 笑顔 81

の2つの数値の差です。
完全に画面の見ないで撮影となると、投げやりにならざるを終えません。撮影者としての意識も、被写体としての意識も無い状態なのでしょう。しかし笑顔を作ろうとすると、純粋に被写体としての意識だけが立ち上がったのか、実験した中で最も高い数値が出ています。
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自撮りにおいて目(視覚)は撮影者、そのほかの感覚は被写体としての意識とコネクトしており、どの感覚が意識の中で優位に立つかが、2つの立場の割合に影響を及ぼしていると言えるのかもしれません。

もし私がなるべく緊張せずに自撮りを撮ろうと思ったら、
緊張をキープしなければならないような負荷を自分自身にかけない
撮影者であることを意識する(ないし意識だけでも撮影者の視点に立つ)
この2つのことに注意を払うことで、写真自体の出来はともかく、楽しく自撮りしたり、写真に写ったりできるのかもしれません。 笑顔以外の表情で写真に臨むのが一番の近道のような気がしますが、それはそれで別のスキルが問われているような気がする…(写真のスキル、顔面のオシャレさなど) また映る写真によってTPOも存在するので(晴れの日の集合写真など)、万能な策ではなさそうです…

逆向きアプローチ

この実験のためのコードを書いているうちに、副産物的なプログラムが出来ました。 心拍の波形を描画する部分をちょっと変更して、写真にかけるエフェクトとして「撮影者がどのくらい緊張度していたか」を示せるように試みて見ました。 心拍数が上昇し、緊張度すればするほど面白い写真になるようになれば、自分自身の価値観が変わらないかな、という逆向きからのアプローチです。
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今のところは「面白くなる」というより「よりプライバシーが守られる」という感じですが…

試しに、普通の写真を外で撮る時の心拍も測ってみました。 あまりにも怪しい出で立ちですが、Goproを持っている人や、Googleのカメラの人などがそこら中にいる界隈なので許されるでしょう(多分)。
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f:id:t0rakeina:20170723175105p:plain:w600 まだエフェクトの種類や、センサーの値が不安定な部分もありますが、精度を高めていくと、写真というメディアアーカイブに「撮影者の撮影時のコンディション」というレイヤーを1つ足すことが出来るようになるかもしれません。正攻法とは違う感じがしますが、少し写真と仲良くなれたような気がします。

英語力0が英語圏で暮らしてみて思ったあれこれ

サンフランシスコで暮らし始めました(期間限定)

ご縁や機会に恵まれ、現在期限付きでサンフランシスコ近辺で暮らしています。
と言うと、「もともと英語が得意な人」と思われることが多いのですが、残念ながらまっっっっっったく違います。そうだったらいいのに!私はもともと、教科としての英語がものすごく苦手でした。
私自身も忘れていたのですが、高校時代の友人曰く、

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という体たらくだったようです。我ながらやばい。 そんな自分なりに、というかそんなレベルだったからこそ、英語圏で暮らし始めて思うことが色々あったので、まとめておきたいと思います。

英語へのイメージ

こんな私も、小学生の時は近所のおばあちゃん(アメリカ在住歴が長い)に英語を教わったり、お風呂で100まで数える時になぜか英語縛りだったり、人並み、ないし平均よりちょっと上の英語力を持っていました。そして中学生になり、最初の英語の授業の簡単さにびっくり。今思えばこれが本当に良くなかった。私が調子をぶっこいている間に、覚えなきゃいけない単語のスペルはどんどん難しくなり、文法も have been とか had been とか言い出しはじめ、完全に私を置き去りにしていきました。また、私はもともと芝居がかったオタク体質なので「英語力っぽい発音を真似る」のが好きだったのですが、中学の英語の授業では、「英語をそれっぽく発音するとカッコ悪い。ダサい」という暗黙のルールのようなものがあり、クラスの二軍所属でこれ以上は絶対にポジションを落とせなかった私は、なるべく「カタカナ発音」をするよう気をつけていました。 こういった要素が絡み合い、私の英語へのイメージは、どんどん悪い方へ…

その後、たまたま英語が得意な生徒が多い高校に進学し、満を辞して英語に対するモチベーションが回復するかと思いきや、既に全く授業についていけなくなっていたこともあり、「みんな得意だし、私はもう頑張んなくていいや」という謎の境地に到達。
そのままフワフワと大学に進学した私は、20歳で人生初の海外旅行に行きます。(ちなみにラスベガス3泊5日3万円弱という驚異の格安ツアー)生まれて初めての入国審査で「sightseeing という単語が出てこない」「fingerが聞き取れない」などのプチトラブル(すべて自分のせい)に見舞われるものの、優秀な友人たちに囲まれていたおかげで、特に不便は感じずに無事終了。いよいよ「自分の人生には多分英語は必要ないな」と確信を深めました。

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状況が一変したのはその1年後。研究室の先輩のサポートとしてロサンゼルスで行われる学会についていくことになり「なんか楽しそう」くらいの心づもりで現地に到着すると、自分の役割が「デモンストレーションを見にきたお客さんに研究内容を説明すること」であることが発覚。(ちなみに研究室の先生や先輩は事前にこのことを説明してくれていたけど聞いてなかった)突如英語を喋らなければいけない状況に置かれた私は当然四苦八苦。見よう見まねでトライするものの「通じない」「聞き取れない」で大撃沈。周囲に多大なご迷惑をかけながら、「もしかして英語って出来なきゃヤバい?」と、はじめて己の真のヤバさに気がつくことができました。 その一件を皮切りに、身の回りにじわじわと英語が必要なシチュエーションは増えはじめ、「なんで中高生の時にもっと真剣に勉強しなかったんだ…」と後悔しつつ、「せめて人並みを目指して、真面目に勉強をするようになりました。

進捗状況(滞在3ヶ月半)

そんな人間が3ヶ月半滞在してみた結果、現状はこんな感じです。

スピーキング

ボキャブラリーが貧困で、テンポも悪い。特に雑談(スモールトーク)がやばい。日本語でも大した会話力(雑談力)はないが、その比にならないくらい「もうひとこと」が出てこないのが目下の悩みです。返答のバリエーションが、エクセルのイルカとか、しゃべる自販機レベル。
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また、聞き返されることにあまりに慣れてしまって、逆に一発で行ったことが通じると、びっくりして会話の間が空くというバカみたいな現象も多発しています。日本語のときは「どうでもいい話」をたくさんしてて、それが会話と会話をくっつけるグルーのような役割を果たしていたんだな、と実感します。あとお酒の力は日本語の時以上に効果的かも。 発音については、その他の事柄に比べるとだいぶマシな様子。(人生ではじめてオタク気質に助けられている)ただ「短い挨拶や決まり文句だけ綺麗に言えて、その後の文章の組み立てはぐっちゃぐちゃなのですごくびっくりする」と言われたり、発音に多少癖があろうが全く問題なく流暢に喋れる人たちがたくさんいるので、発音だけを褒められると逆に謎の恥ずかしさに襲われます(被害妄想)。RとL、thの発音はコミュニケーションに支障をきたすほど無理。

リスニング

本当にダメな生徒だったので、「こんな単語習ってないよ〜」と思う単語の9割が「大学受験までに知っとけ!」レベル。ただ、bunch of 〜 とか「習っちゃいるけど…」な言い回しが超頻出だったりしてびっくりしました。また、会話中にイディオムが結構容赦なく飛び出すので「今言われたこと、全部聞き取れたけどまったく意味がわからない」という事態も稀に発生します。

こちらに来てから聞いたお気に入りのイディオム
  1. Too many cook in the kitchen (船頭多くして船山に登る)
  2. Jump the gun (早まった行動をする, フライングする)
  3. Go banana (頭がおかしくなる!)

最近、よく話す人の言うことは結構わかるようになってきた…気がする…のですが、多分これは、英語が聞き取れる耳になってきた!というよりも「その人の人となりがなんとなく掴めたので、言いそうなことを少し先回りして予測できるようになった」という方が近い。不思議なことに、その予測が少し出来ていると、安心して聞き取りができるのか内容自体も頭に入って来やすいし、それ故に、よく話す人との会話でも話題が突然変わったり、話が脱線すると、単純な単語や文章もさっぱり聞き取れなかったりしています。F.R.I.E.N.D.Sなどの海外ドラマが英語学習にオススメされるのは、「同じ役者さんが同じキャラクターを何話も演じ続けてくれるから = そのキャラクターに慣れられるから」なのかもしれないな〜と。

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あと、うるさい場所はとにかく大変で、カクテルパーティ効果は基本ゼロ。なのに、ちょっとでも日本語が聞こえてくると耳がそっちにもってかれてしまう。 f:id:t0rakeina:20170611173235j:plain
「耳が日本語に飢えてるんじゃない?」と言われました

全体的にうるさくて、かつ日本語を話す人がチラホラいる観光地が、現在の私の英語の聞き取りには一番向かない場所で、逆に心穏やかに聞き取りできるのは、UberLyftなどの静かな車内、他のお客さんと距離が取れる屋外テラス、公園など。

今は、英語圏に行って暮らすだけでは英語を喋れるようにはならないんだなあ」という、至極当然の事実を痛感しています。中高生の時「私にも留学するチャンスさえあれば、すぐ英語なんか喋れるようになる!」と思っていた自分をぶっ飛ばしてやりたい…

気づいたこと

こんな感じで、もがきながら英語で人とコミュニケーションを取っていくうちに、いくつか気がつくことがありました。

自分のパーソナルスペースが狭くなってる

握手やハグなどの文化の違いもあるのかもしれませんが、どんどん会話の相手に近づいていってしまっていることに気がつきました。もともと「自分のパーソナルスペースは狭い方」という自覚はあったのですが、日本にいた時以上に人に接近している気がします。しかも私は右耳が聞き耳なので、相手が言っていることが聞こえない/聞き取れない時はどうやら右からぐいーっと接近しているっぽい。

会話に割って入るのが至難の技

1対1のコミュニケーションに比べて、人数が増えると段違いに会話が難しくなります。2対1でも十分難しく、特に「会話をしている人たちに話しかける」のは本当に難しい。いつも変なタイミングで割行ってしまい、相手を驚かせている気がします。最たるものは「盛り上がってるミーティング」で、口は「Can I say something?」などと言う準備が出来ているのに、そのタイミングがつかめません。またスモールトーク終わりの去り際も同じくらい難しく感じます。

「当たり前」と思われることばかりかもしれませんが、私はこれらに気がついた時結構びっくりしました。というのも、サンフランシスコに来る直前まで、たまたま仕事上の理由で「自閉症スペクトラム症」について少し勉強しており、上記に挙げた「私が英語でコミュニケーションをする際に感じている難しさ」が、色々な方から教えて頂いた「自閉症スペクトラム症の方がコミュニケーションする際に感じる難しさ」と似ている部分があるかもということに気づいたのです。

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あくまで体感的なものなので何の根拠も無く、また「もしかしたら誰かに対して失礼なことを書いているかもしれない」という不安もあるのですが、もしも第二言語を自覚的に習得する最中の、この中途半端な状態の際に感じられる感覚が、一種のディスエイブル体験に近いものだったら?と思うと、ものすごく興味が湧きました。
私の世代では、中学や高校の体育/保険の授業で、いわゆる「お年寄り体験」なるものをやったりした記憶はありますが、緑内障を模した緑色のメガネや、腕や足につける重りはやっぱりどこか非日常的で、「自分とはあまり関係ないな」と考えていたように思います。こういった体験に比べ、英語のコミュニケーションで今私が感じている困難さは、ものすごく「自分事」です。そう考えると、自分は今、なにか凄いゾーンを体験をしているような気がしてなりません。
思ったことをパラパラと書きなぐったのでまとまりがない文章になってしまいましたが、今後も観察を続けて、何か思う所があればまとめてみたいな、と思います。

DIYでコンプレックス克服!~父と私とSNS、写真との復縁を目指して~

前回までのあらすじ

30歳になる前に、自分のできる範囲で、これまで悩んできたコンプレックスを解決しようと動き出した私は、「写真写りが悪い」という自分最大のコンプレックス解消のために試行錯誤を始めた。しかし、笑顔度を計測するでデバイスをプロトタイプするものの、自分で作ったのに自分でうまく扱えないなかったり(アドバイスしてくれた友人の方が扱いがうまい)、写真に撮られ慣れるためにパソコンにプリクラ機能を足してみたものの、自分で作ったのにもかかわらず激しいストレスを感じて逃げ出したり、まったくまともな成果が出ないまま、ただただ2年の歳月が流れたのであった…

その1
t0rakeina.hatenablog.com

その2
t0rakeina.hatenablog.com

その3
t0rakeina.hatenablog.com

そんな訳で今回は、あまりにも進捗が少ない事実を鑑みて、「なんでこんなに写真写りが悪いのか」、また「なんでこんなに写真写りの悪さが気になるのか」ということを、自分の半生を振り返りつつ考えてみることにしました。

父と私と写真

私の父は、写真を撮ることを生業としている人です。時々、大学で写真について教えたりもしています。

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夢を曵く/To photograph a dream

Pentax+ / 写真三昧 vol.65

父のInstagramや関連記事。こんな感じの写真を撮ります。父がいかにややこしいアーティスティックな人か理解してもらえるかと思います。
(ちなみに仕事を大募集中らしいです。ご興味のある方はご連絡ください)

そんな父の「一番身近な被写体(こども)」である私は、当然様々な現場に駆り出され、写真のモデルを一種の「お手伝い」として行うことになります。この話をすると大多数の人に、「ああ、ちびまる子ちゃんのタマちゃんみたいな感じね」と言われますが、全く違います。ほぼ対極です。どちらかといえば星一徹です。

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とにかく父は指示が細かい&よく怒る。私以外のものを撮っている時は比較的おおらかですが、こと身内の私を写すとなると「自分のビジョンに可能な限り近づけたい」という気持ちが出るのか、立ち位置や顔の向きや腕のポーズなどにミリ単位の指示をしたり、シャッターを切る瞬間に目をつぶると本気で怒ったりと、正直大変面倒くさい。しかも、父が撮るのはいわゆるアートっぽい写真。どれだけ辛くても、自分が可愛く写っていれば幼い私も納得したかもしれません。しかし実際には、号泣していたり不貞腐れたりしているブサイクな顔をわざわざ狙って撮られたり、私に一切ピントが合っていなかったり、後ろ姿や腕しか写っていなかったりと、自己顕示欲求を一切満たしてくれないものばかり。私にとって「写真のモデル = 面倒臭い上に面白くない、一番やりたくないお手伝い」でしかありませんでした。

風船を体中に巻きつけられたこともあります。海沿いの公園で、部活で走り込み中らしい中学生集団のヒソヒソ声も聞こえて、端的に言って地獄。

また今回この記事を書いたことで「ググれば色々出てくる」ということがわかりました。ギャー!!

そんなわけで、自意識が芽生えてから家から遠い高校に通い出すまでの間、父から「明日モデルしてくれる?」と聞かれたら、隠れてコソコソ「逆さ坊主」をつくって雨を祈ったりするような子供時代を過ごした私は、写真に撮られることがちょっとしたトラウマになってしまいました。

ただその一方で、父の仕事は、写真(特に作品としての写真)を私にとって身近なものにもしていました。 父の撮った大小様々なサイズにプリントされた写真、父が被写体として使う謎の置物やアンティークのおもちゃ、高さがぴったりという理由で絵本の棚に並べられた写真雑誌や写真集…いわゆる「家族の思い出アルバム」のようなものはほぼ皆無でしたが、写真は家の中に溢れていました。昔から根っからのインドア派だった私は、わりとしょっちゅう謎の置物やおもちゃで遊んだり、写真集や雑誌を眺めたりして過ごしたような記憶があります。また、雑誌などが古くなってくると「好きな写真を切り抜いていいよ」という許可も降りたので、いくつか小さめの写真を見繕ってシルバニアファミリーの家に飾ったり、切り抜いて人形代わりにしたりしていました。 そんななかでも、父が傾倒していたロバート・フランクの写真は、いわゆるキレイな写真とは違って、幼心に「身ちゃいけないものを見ている」ような面白さがあり、よく眺めていました。

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ダイアン・アーバスの写真集なんかもノーガードで置かれていたので、どひゃ〜〜!と思いながら見てました

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この背徳的な感じちょっと怖くて、でも面白い感覚は結構強烈で、デジスタを必死に観始めたり、ストップモーションアニメに興味を持つきっかけになったりと、その後の私の進路にも少なからず影響しているような気がします。
自分が撮影されない限り、写真は私にとって、自分をいい塩梅で怖がらせてくれつつ、写っている人の視線を辿ったり、どんな場所で撮ったのか考えたりして遊べる、情報量の多い絵本のような、身近で親しみ深い存在でした。

押し寄せるSNSの波

そして、写真に対して微妙に矛盾した感情を抱えつつ成長し、だんだん父のお手伝いからも遠ざかった私のもとに、SNSの波が押し寄せます。「ネットに顔はださない」「ネットに名前を晒さない」というそれまでの暗黙のルールが、Facebookなどの登場により劇的に変化し、ネット上には沢山の人の顔が、名前と紐付けられた情報として溢れ出しました。これにより、写真の(特に人の顔の映ったもの)あり方はそれまでとは全く変わったように思います。もしもここまでSNSの類が大流行しなければ、写真を撮るタイミングや頻度は変化しなくとも、写真に対して他者がフィードバックを返すカルチャーはここまで発展しなかったでしょう。自分が写っている写真が、自分と紐付けられた情報として、自分の手の微妙~に届かないところまで広がり、良いにせよ悪いにせよフィードバックを受け取ることが出来る。少し前であれば、ちょっとした有名人以上の人だけが抱える悩みが、一般人の私たちのところまでリーチしてきた感じがしたのを覚えています。 もちろん、こんな時代においても「顔を出さない」を貫いている人もいますし、そういう楽しみ方も出来ます。若者のFacebook離れなんていうギョッとする言葉も生まれてきているので「情報を四方八方に広げる、シェアする」というのはこの辺りで打ち止めなのかもしれません。もちろん私も、思う所があればそういったスタンスを取ることも全然可能なんですが…もともと自意識のバケモノ&自己顕示欲求が強い人間な上に、人の情報を見る時も「顔が写ってる情報の方が面白い気がする」という自身のスタンスも相まって、「顔を出さない」というクールな姿勢も貫けず、「なんとか十人並みにこなしたい…!」中途半端な写真を撮り、中途半端な仕上がりで人の写真に写り、微妙な写真がインターネット上の「私」を形成する、という、ちょっとディストピアっぽいループに陥ったのです。

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このように、もともと写真に撮られることに若干のトラウマめいた感情があったことと、SNS時代の自己顕示欲求との間で揺らぎながら、今現代私の抱くコンプレックスが形成、肥大化していったと考えれます。

写真との復縁に向けて

振り返ったことで、家庭環境とSNS事情が相まって、今の私の強烈なコンプレックスが出来上がったことがわかりました。では、そのコンプレックスにどう対応するか?

カメラの気持ちになる/仲良くなる

この字面だけだとまた友人から心配されてしまいそうですが、今回半生を振り返ったことで一番びっくりしたのは、「私、基本的にはわりと写真好きじゃん」ということです。学生時代は、こどもの頃の記憶と、父から発される「お前は写真に興味がないんかオーラ」にアテられていたせいで「誰が写真なんか!」と思っていましたが、よくよく考えてみれば今の好きなものの傾向も、今アートっぽい業界で働いているのも、原点は結局この辺なのかもしれません。なんとなく写真全体に対してネガティブなイメージを抱いていたけど、苦手なのは「写ること」であって、「写真自体を見る行為」などは、どちらかといえば好きな行為に含まれる…ということまで分解して考えることができなくなっていたようです。自己顕示欲求を押さえ込むのは難しいけど、写真の、特に「撮影」に対して私が持っているイメージが変われば、写真に写ることに対しても不必要にビビったりしなくなるかもしれない…!そこで、一番苦手な写真に撮られるという事に注力するのではなく、写真撮影とカメラそのものと歩み寄ってみる方法について、少し考えてみることにしました。次回の記事では、その実践例として、「カメラと身体のファンクションを繋いだプロトタイプ」について書いてみようと思います。

「肌触りが悪いリアリティ」 映画 ハッピーアワー 感想

昨年から公開は始まっていたようですが、先日こんなイベントで、噂の「ハッピーアワー」を観る機会をゲットしたので、感想を簡単にまとめておこうかと思います。

hh.fictive.jp

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一言感想

「どこがハッピーアワーだよ!」と暴れたくなるような、すごい映画でした。自分がなんとなく見ないようにしたり、見ても視点を合わせないようにしていた肌触りが悪いリアリティを、映画が容赦なく観せてくるので、すごく大変です。5時間強の上映時間はお尻に辛いですが、とにかくオススメです!

じゃあ、この肌触りが悪いリアリティとは何か?という事を、大きく3つの項目に分けて記録しておこうと思います。

見たことのない「大人のキャラクターのリアリティ」

公式ページの方にも記載されていますが、ハッピーアワーに出ている人のほとんどは演技経験のない方たち。「なのに」なのか「だから」なのか、この映画が提示してくるゴロッとしたキャラクターのリアリティには驚かされました。いわゆる「すごく上手な女優/俳優の演技」ではないんだけど…例えて言うなら「自然体そのままで映画にばっちりハマっちゃった子役」みたいな感じが近いのかもしれません。

www.youtube.com 最近だとROOMとか、子役の男の子の実在感が凄すぎて「演技って何?」って思いました。

そういうハマり方って子役だと「可愛い!すごい!」と感じて、すごく微笑ましいんだけど、大人だと…なんだろう正直怖かったです。 つっかえる言葉、泳ぐ目、髪の毛がボサってしてる感じ、若干の肌荒れ、あとすっぴんとか、すっぴんとか! 多分、実世界ではたくさん見てるんだけど、スクリーンを通してはあまり見たことのないリアリティがいっぱいだったので、とにかく怖かったです(褒め言葉)

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逆に、「私たちの目は、実世界の物事は上手いことフィルタリングしてる」とも言えるかもしれません。初めてメガネをかけてて鏡で自分の顔を観た時「うわ!リアル!」って思ったことを思い出しました。

ライド感の高い「長いシーン」

ハッピーアワーには「印象的な長いシーン」が沢山出てきました。ワークショップとか、打ち上げとか、朗読会後のトークイベントとか。個人的に一番ぐっと来たのは「微妙なワークショップをほぼ全部観させられる」あのシーン。リアリティというか、ライド感が半端なかったです。丁寧に「ワークショップあるある」が描かれて、かつ長い。しかも内容が絶妙に信用できないので、不思議な緊張感が持続する…自分があのワークショップを受けてないのが不思議なくらいでした。

そのほかも、「この摩擦係数が高いリアリティから開放してくれ!」と逃げたしたくなるような、良いシーンばかりでした。怖かったです(褒め言葉)

f:id:t0rakeina:20140724223206j:plain 地獄打ち上げシーン

「完全な悪者はいない」という嫌さ

ハッピーアワーを観ていて、改めて「実世界に完全な悪役はいない」という事を実感しました。(文字にすると実に陳腐なのですが…)

対象が「良いやつ」なのか、「悪いやつ」なのかを決定するのは客観的な目線で、その目線が「対象の全て」を捉えられるわけではない。そうすると、その時々の切り取り方によって「悪い/良い」というジャッジがなされる…これってまんま物語構造なんだなあ、と思いました。誰かの恣意的な目線で切り取られ、その時の「乗り越えるべき壁」や「倒すべき敵」(悪者)が設定され、それらを乗り越えたり、倒したりすることで、カタルシスと物語的なオチを付けてる。

でもハッピーアワーでは、登場人物の色々な面を、意図的に、可能な限りたくさん見せるようにしたのかな?と思いました。かなり精神的にキちゃってるキャラクターにも共感できる瞬間があったり、「最低!」と思うようなキャラクターにも突然同情出来てしまったり、逆に、最初は感情移入していたキャラクターの行動原理がまったく理解できなくなったり…。やっぱり「この人は感情移入できる!」「こいつが悪者だ!」ってはっきりわかると、摩擦係数が低いと思うんですよ。でもこの映画は、そいういうところが全然スベスベじゃない。この映画が、観ていて何故か冷静でいられない、客観視できないのは、そういうことが原因だと思いました。当事者でい続けなきゃいけないように出来ている、大変疲れる映画だったと思います(褒め言葉)

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「リアリティの追求」というアプローチの多様性みたいなものを再認識できる、強烈な映画でした。5時間強の上映時間はすごく長いけど、全然退屈しない、そしてキッチリ疲れる、豊かな時間だったなぁ。

いつもいつでもうまく行くなんて、保証はどこにもないけど - Pokemon go の暫定的感想 -

いつでもいつも本気で生きてる、こいつたちがいーるー♪

Pokemon go が日本でリリースされて、1週間が経ちました。
どちらかというと「まだ1週間しか経ってないのか!」という感じですね、なんでだろう?「事前情報に踊らされ期間」が異常に長かったから?ド直球ポケモン初代世代のアラサーには、本当に心かき乱される1週間でした…

ここらで今、Pokemon go に対して感じている感想をまとめておこうと思います。

Q.Pokemon go 実際やってみてどう?

A.楽しい、というか、嬉しいです

同世代にそういう人は多いでしょうが、私の人生で初めて手に入れたゲームは「ポケットモンスター グリーン」です。ゲームボーイポケモンのソフトも飛ぶように売れた当時、おもちゃ屋さんはどこも品薄。私の母も手に入れるのに随分苦労したようで、「キティちゃんのハローキティのサンリオうらないパーティ」とセットで販売していた、キティちゃんが全面に描かれたピンク色が強烈なゲームボーイと、そのお店に唯一1個残っていたというグリーン版を買って来てくれました。

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猛烈にキティ…

正直、趣味じゃないゲーム機にテンションは下がりましたが、ゲームの内容に熱中してそんな気持ちはすぐに吹っ飛びました。フラッシュのわざマシンの手に入れ方が分からず勘と気合でイワヤマトンネルを突破したり、クチバジムのマチスが倒せなくて本気で泣いたり、いきなりレベルが100になる裏ワザを試してカメックスが火炎放射を覚えたり… いろいろあったな…

なにより当時は、インターネットで攻略法を調べるという発想が無かったため、ポケモンは基本的に友達と集まってやるゲーム。近所の公園、近所のスーパーのフードコート、友達の家、マンションの憩いスペース的な場所、色々な場所で攻略法を教わったり、ポケモンを交換したり、バトルしたり…ポケモンは強力なコミュニケーションツールでした。

Pokemon goは、このコミュニケーションツールたる部分をバッチリ継承していると思います。 特に「あ!出た!」と誰かが声を上げた瞬間の団結感は堪りません。 みんなで「どこ?どこ?」って言いながら、肩を寄せあって、画面を見せ合って必死にポケモンを探している状況は、あまりに小学校時代と酷似しているので、脳がバグったのかな?と思うほど。 さらにそれで「昔パーティーに入れて可愛がっていたポケモン」なんかをゲットしちゃうと、嬉しさと共に強烈なノスタルジーの襲われて、ちょっと泣きそうになります。

全くの同世代の方の、久々にポケモン達に会えた喜びをまとめた素敵な記事

mogmog.hateblo.jp

とにかく、今は喜びを噛み締めてる!って感じです。

Q.Pokemon go の「良いなぁ〜!」と思うポイントは?

A.沢山あります!

馬鹿みたいですが、とにかくポケモンが可愛い。

タップすると「気合一発!」的なモーションをしてくれて本当に可愛い。ピカチュウは若干やり過ぎでは?と思うけどやっぱり可愛い。負けた気持ちになるけど可愛いんだからしょうがない…ケチャップあげたい… マップ上にも省略アイコンじゃなくて、ポケモンそのものの姿で出現してくれるのが良いですよね。大きさの違いをダイレクトに感じられて楽しい!オニスズメ、雀だけあってちっちゃい!コダック以外とデカイ!可愛い〜。

世界を巻き込んでいる故に勃発する面白い運動

世界中で大ヒットしているが故に悲しい事件も起きていますが、一方で、色々な切り口からPokemon goを分析&ハックする人がいる状況がすごい! ナードに優しい世界って感じがします。 wired.jp

絶妙にフィジカルな摩擦を回避したジム戦バトルシステム

楽しいポケモンバトル、とはいえ全くの見ず知らずの人にいきなりポケモンバトルを申し込むのは、大の大人にはかなりハードルが高い…。「ジムにポケモンを設置するシステム」は、ingress直系という気もしますが、そこらへんの気まずさを上手いこと回避しているな〜と思います。かつ、一緒に戦ってくれている人の気配もなんとなく感じられるシステムが嬉しい。 このバランスは上手いな〜!!と感動しました。

とにかくingressのいいところを上手に盛り込んでる

ジム戦バトルシステムもそうですが、とにかくingressのいいところはちゃんと継承してる!という感じ。

チーム分け要素

ingressの「見ず知らずの人と、何となく仲間意識を共有する感じ」が最高に面白かったので、この要素があってよかったー!と思いました。設定として、ちょい思想めいたもので分けられるのもいいですよね。 ingressの2分割もなかなかですが、3分割も結構バランスが良い気がします。ちなみにブルーチームに所属しています〜進化過激派。

ビッグスケールとスモールスケールの行き来

確かに、醍醐味だなーと思いました。というか、そもそも「理由なく外出はしない」タイプの人間にとって、「ちょっと周り道したい」と思わせてくれる段階ですごい。

地域起こしにダイレクトに繋がりそう感

これに関しては、地域ごとに出現するポケモンを調節すれば、ingress以上の効果が見られる可能性があると見た!伝説のポケモンだけでも、それっぽい地方にピンポイントに配置してみてはいかがかしら?フリーザとかファイヤーとかサンダーとか。

Q.じゃあ、Pokemon go の「う〜ん…」と思うポイントってある?

正直、これも結構あります…

超頑張っても、歩きスマホになりやすい

ゲーム版では草むらなどの特定の場所でしか飛び出してこなかったポケモン達が、Pokemon goでは、マジでどこでも飛び出してくるのでびっくりします…。これはどうしても画面を見ちゃうよなぁー! ingressは、目的地にたどり着くまでは基本的に画面を見ないで済んだから、まだ歩きスマホ率が低かった気がするし。 AR機能を活かしたおもしろ写真が撮れる等の強力なメリットももちろんありますが、やっぱり少し場所を限定すると良いんじゃないかな。例えば、ポケストップの周りだけとか。

両手でやらなきゃ無理なゲームシステム

モンスターボールを投げるアクション要素は楽しいけど、どうしても「片手でスマホを固定」「片手でボールを投げる」という動きになり、これはこれで危ないかな…。あと、「あ、あいつPokemon goしてる」って100パーバレるのもな…いや、良いんだけど、もうちょいさり気なくやりたい時もあるし…

2016.07.31
「頑張れば片手でもできるよー!」というコメントを頂きました!なるほど、ここは努力次第なんですね!

アメシステム

正直、「アメを集めて与えるシステム」がいまいちピンとこないです。せっかくこんなに可愛いのに、ポケモンの個体にはほとんど愛着が湧きづらいシステムになってると思う〜。こう、「手塩にかけて育てたぞ!」という実感があるともっと楽しいし、単純にもっとポケモンバトルしたい。
そもそも元々のポケモン「とにかく全部のポケモンを集めきりたい派」と「じっくりゆっくりお気に入りのポケモンを育てたい派」に楽しみ方が分かれていた気がして、明らかに後者だった私には、アメシステムがなかなか飲み込めないです。 野生のポケモンともバトルしたいし、バトルでポケモンを強化したいよー!

画面情報が多い

「外を歩きまわりながらでしか成立しないゲーム」という点ですでにAR要素はクリアしているような気がしますが、上記でも書いたように、どうもingressをプレイしている時より画面ばっかり見てる気がします。 特にプレイヤーのにアバターは「うーん、これいる?」って思っちゃう。いなくても成立しそう。アバターの存在が、Pokemon goを「画面完結のゲームっぽく見せてる」ような気がしてます。

「これがこんなに流行ると新しいものを作る気が無くなる」という気持ちは、正直ちょっと分かる…

1週間遊んでみて感じた一番悲しいポイントがこれです。やっぱりPokemon goは、ingressの大量のデータとノウハウに、コンテンツ力のあるポケモンをドッキングした力技なゲーム。単体で見た時に新しい要素がちょっと少なめなのは確かだと思います。 ポケモンの歴史から考えると「ヤバイ!あのゲームの世界が現実に!小学生の時の自分に報告させてくれ!」という感じですが、ingressを初めてやった時の「なんじゃこりゃ…!!知らね〜〜〜〜!!!」という驚きは無いかな… すごい人たちが超超超努力して作っていることは百も承知ですが…。

まとめ

良くも悪くも、「最高に嬉しいポケモンの最新版」であり「ingressのネクストステップ」がPokemon goなんだな、と思います。でもingressをしてなかった人にも、というか、老いも若きも、世界中の全世代にリーチしているという事実が本当にすごい。 世界中からどんどんノウハウがたまって、Pokemon goを面白く使い倒す人が出てきたり、次にもっとヤバイゲームが出てきたりするのかも!と思うと、ものすごいワクワクします…! とにかく、まだ全然嬉しさが冷めやらないので、近所のジム(職場)で一番強くなるまで頑張りますー!!